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第2話 ──王太子の誤算 ロザリー・フォン・アーデンの華麗なる逆転──

 朝の冷たい空気が、まだ冬の名残を感じさせる。カーテンから差し込む薄い光を受けて、ロザリー・フォン・アーデンは静かに目を開いた。

 前夜、突然の婚約破棄を王太子エドワードから宣言されてから、一日が経過する。心を乱されないように努めてはいるものの、昨夜はやはり不安や怒りが胸を渦巻き、熟睡できたとは言い難い。それでも、ロザリーは目覚めると同時に意識を切り替えるよう、自らに言い聞かせた。


(もう悲嘆に暮れている時間はないわ。何があっても、前に進まなくては……)


 ロザリーはゆっくりと上半身を起こし、昨夜仕立て直したばかりのナイトガウンの襟元に手をやる。サラリとした絹の質感が心地よい。普段であれば、朝起きたら軽くベッドで読書をするか、侍女と軽い雑談を交わして気分を落ち着かせるところだ。しかし、今はそうした余裕すら感じない。


 ノックの音がして、侍女のリーゼルが顔を出した。大きな瞳には疲れが残っているが、ロザリーの様子をうかがうと、すぐに真摯な態度へと切り替える。


「おはようございます、ロザリー様。あまりよく眠れなかったのでは……?」


「ええ。でも、心配はいらないわ。リーゼル、あなたも少しは休んだの? 夜更かししていたでしょう?」


 リーゼルは申し訳なさそうに首を振る。彼女もまた、ロザリーと同じく昨夜の衝撃を忘れることができず、ほとんど寝付けなかったのだろう。しかし、それでも侍女としての務めを怠るわけにはいかない。


「大丈夫です、ロザリー様。……公爵閣下が、今朝早くからいろいろと指示を出されておりまして、ロザリー様にお話ししたいことがあるそうです。朝食後に執務室へお越しください、と。」


「わかったわ。支度をしてすぐに伺うから、そうお伝えしてちょうだい。」


 ロザリーは静かに答えると、リーゼルに手伝ってもらいながら身支度を整える。銀糸のような長い髪を丁寧にブラッシングしてまとめ、淡いラベンダー色のドレスに袖を通す。昔なら朝から華美な装いを選ぶのは少し気恥ずかしく感じたが、今はむしろ“公爵令嬢”としての威厳を意識する必要がある。昨夜、あのような形で婚約破棄を突きつけられたのだ。少なくとも、相手が“何を失ったのか”を思い知らせるくらいの存在感は示しておきたい。


 着替えを終えたロザリーは、軽く朝食をとると父のいる執務室へ向かった。扉をノックすると、すでに中では公爵ルパートが机に山積みの書類に目を通しながら、渋い表情を浮かべている。執務室の一角には執事のニコラスが立ち、やや疲労の色を浮かべていた。


「おはようございます、父様。……何か新しい情報が?」


 ロザリーがソファに腰掛けると、ルパートは書類に視線を落としたまま、わずかに首を横に振る。


「今のところ、はっきりとしたことは分からん。だが……王宮では何やら騒然としているようだ。エドワード殿下の突然の行動に、国王陛下が相当お怒りだと聞いた。もちろん、正式な場で婚約破棄を通達しておられるわけではないらしいが、殿下本人は“これはもう決まったこと”と吹聴しているようだな。」


 それはつまり、王家として正式にロザリーとの婚約破棄が認められたわけではない、ということだ。ロザリーは少しだけ肩をすくめる。


「……昨夜殿下が言っていた『国王陛下も了承している』という話も、やはり彼の一方的な言い分の可能性が高いのですね。いずれにせよ、わたくしはもうあの方に未練はありませんから。問題は、アーデン家と王家の関係がこれ以上こじれないようにすること……それから、あのセシリアという女性の正体ですね。」


「そうだ。セシリア・ブランシュ……“聖女”と噂されているが、その来歴や本当に神の加護を受けているのかどうか、きちんとした証拠は何もない。わざわざ宮廷の祝宴にまで現れたのは、何らかの後ろ盾があるからだろう。」


 ルパートが低く唸るように言う。その言葉に、ニコラスも静かに同意する。公爵家や王宮筋の情報網を駆使しても、セシリアの詳細は今ひとつ得られないというのが現状だった。あまりにも不自然だ。まるで誰かが彼女の身元を隠蔽しているかのように。


「それでも、私たちは慎重に動くしかない。……ロザリー、お前にはあまり負担をかけたくないが、社交界での動きは、お前のほうが早いし的確だ。もし招待状やパーティの誘いがあれば、積極的に顔を出してほしい。向こうがどんなふうに動いてくるのか、探りを入れるためにな。」


「承知しました、父様。お気遣いありがとうございます。でも、“動く”ならむしろ好都合ですわ。わたくしも黙って打ちひしがれているだけでは、皆に足元を見られてしまいますし……。」


 婚約破棄の噂が広まれば、ロザリーに対して同情的な者もいれば、嘲笑や悪意を向けてくる者もいるだろう。“公爵令嬢でありながら捨てられた”という事実は、それだけで格好のゴシップだ。だが、ロザリーはもう腹をくくっている。ここで弱さを見せれば、アーデン家は侮られ、自分の未来も狭まってしまう。ならば、優雅かつ堂々と行動するべきだと。


 そのとき、ノックの音とともに一人のメイドが執務室に入ってきた。ロザリーのもとに、なんと数通もの招待状が届いているという。その中に名門貴族たちの夜会やお茶会、あるいは慈善活動の集いなど、バリエーション豊かな案内状が混じっていた。


「随分と早いわね……もう私のもとに届くなんて。」


 ロザリーは不審に思いながらも、一通ずつ封を切って目を通す。実にいろいろな名義で開催される社交行事だが、そのほとんどが“ロザリーの顔を見たい”とか“お話を伺いたい”という文面が付け加えられている。まだ正式には発表されていないものの、王太子の婚約破棄騒動が急速に広まりつつあるのだろう。


「見ろ、ロザリー。一気にこんなにも……。いかに王家の動きが異常だったか、皆が興味を持っている証拠だ。」


 ルパートは苦笑混じりに言う。彼ら貴族にとっても、昨日まで“将来の王太子妃”だった女性が突然婚約を解消されたという事実は、あまりにも衝撃的だ。何か裏があるに違いない、と疑う人々が大半を占めるだろう。

 ロザリーは招待状をぱらぱらと眺め、いくつか気になるものをピックアップする。


「……グラナド侯爵家の夜会と、ラトレイン子爵家の午後のお茶会。あとは、カペル子爵夫人主催の刺繍レッスンですか。どれも堅実な家柄ばかりですし、社交界でも発言力がある方々。……参加してみるのは悪くないわね。」


「そうだな。あまり大規模な晩餐会や舞踏会だと、逆に王家の目を気にするかもしれない。まずは小規模な集まりから、こちらの様子を積極的に発信していくといい。お前がどれほど取り乱さず、いつも通り聡明であるかを示すだけで、エドワード殿下側の印象を揺さぶることができるだろう。」


 ルパートは、王宮の動向に翻弄されるだけでなく、自分たちから情報を発信することが重要だと考えていた。ロザリーもそれに同意する。今回の騒動では、どうしても王太子エドワードが“権力者”として注目を集めやすい。しかし、アーデン公爵家も王国内では屈指の影響力を持つ。ロザリーがあえて積極的に外へ出て行くことで、「アーデン家はこの程度で揺らがない」と各方面に印象付ける狙いがあるのだ。


「わかりました。リーゼルにも手配してもらいましょう。……では父様、わたくしはさっそくグラナド侯爵家の夜会に出席させていただきます。確か、数日後に開催されるという日程でしたね。」


「うむ。あまり無理はするなよ、ロザリー。お前の心労を思うと……正直、気が気じゃないんだ。」


 ルパートが柔らかな声で言うと、ロザリーは微笑みで返す。昨夜の出来事からまだ一日しか経っていない。それでも彼女は、公爵家の令嬢として“立ち止まる”わけにはいかないのだ。



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小規模な集いと広がる噂


 それから数日、ロザリーは招かれたお茶会や夜会など、規模は小さいながらも社交界の行事に積極的に参加した。その美貌と知性は以前と変わらず、むしろ婚約破棄という大変な事態を迎えながらも表情一つ崩さない様子に、周囲の貴族たちは一目置くようになる。


 どこへ行っても、必ず話題になるのは“王太子エドワードとロザリーの婚約の行方”だ。ロザリーとしては表向き、「わたくしとしては殿下のご意志を尊重しようと考えております。正式な決定は、いずれ王宮から発表があるでしょう」という立場を貫いている。深く追及されても笑顔でかわし、王太子に対する悪口や罵倒などは一切口にしない。むしろ「殿下は素晴らしい方ですもの。きっと何かお考えがあってのことでしょう」と軽く流す。


 そんな振る舞いが、逆に貴族たちに「あのロザリー様は、大したものだ」と評価を高めさせる。婚約破棄を突き付けられたにもかかわらず醜態を見せず、王太子への憎悪も表に出さない。その毅然とした態度が、“こんな女性を失った王太子は一体どうしてしまったのか”という疑問を抱かせるのだ。


 さらに、ロザリーは自分の領地や商会関係の者にも指示を飛ばし、アーデン家が主導しているさまざまな取引や公共事業を滞りなく進めるよう励行した。もともとアーデン家は経済力があり、ロザリー自身も商業や経営の知識を学んでいたため、こうした内政的な仕事は得意とするところである。


「ロザリー様のご指示で、新たに隣国との交易拠点を増設するとのお話が進んでおります。これが成功すれば、当家の収益も王国の貿易収支も大いに潤うでしょう。」


「ありがとうございます。父様や私たちだけではなく、王国全体のためにも力を尽くしましょう。どんな事情があれ、国が乱れれば人々が困るのですから。」


 ロザリーは一介の令嬢と侮られがちだが、彼女が家の業務を本格的に手伝うようになってから、アーデン家の財政は飛躍的に安定したと言われている。このまま婚約破棄となれば、王宮はロザリーという有能な人物を失うことになる。もしかすると、エドワードがそれを理解していないのか、あるいは理解しながらも突き放したのか――いずれにせよ、外部から見れば“損”をしているのは王太子のほうだ。


 こうした“空気”が社交界全体にじわじわと広がっていく。一方のエドワードとセシリアはというと、まるで恋に浮かれた若い男女のように甘い時間を過ごしているらしい噂が絶えない。平民出身のセシリアがどのように王宮内を動き回っているのか、正確な情報はロザリーの耳にも届きにくい。ただ、エドワードは“真実の愛”に酔いしれているのか、政治や外交の場にあまり姿を見せなくなったという。


(本当に、どうしてしまったのかしら……)


 ロザリーは一抹の虚しさを覚えたが、同時に覚悟も決める。自分は自分の道を行くしかない、と。



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グラナド侯爵家の夜会


 ある夜、ロザリーは以前から出席を予定していたグラナド侯爵家の夜会に赴いた。侯爵家の当主であるガブリエル・グラナドは、ルパートとも懇意にしている信頼できる相手だ。妻であるエミリア・グラナド侯爵夫人も良識的な人物で、出席者は比較的落ち着いた顔ぶれが揃うはずだった。


 黒塗りの馬車がグラナド邸の門をくぐると、中庭にはすでに数多くの貴族の馬車が停められている。石畳を照らすランタンが揺らめき、夜会の賑やかな笑い声や楽団の演奏が遠くから聞こえてきた。ロザリーはリーゼルの手を借りて馬車を降りると、肩を軽く落として深呼吸する。


「大丈夫ですか、ロザリー様。まだお疲れが……」


 リーゼルが心配そうに囁くと、ロザリーは微笑みを見せる。


「ありがとう、リーゼル。大丈夫よ。ほら、行きましょうか。」


 侯爵邸の玄関ホールでは、召使たちが来客を丁重に出迎えていた。ロザリーの姿が見えると、ホールの中にいた人々の視線が一気に集まる。すでに社交界では、“王太子から婚約破棄を宣言された公爵令嬢”として話題沸騰中なのだ。何か噂の種を拾おうと、好奇の眼差しを向ける者もいれば、純粋にロザリーを気遣う者もいるだろう。


 しかしロザリーは、そのどちらにも動じない。涼やかな笑みを浮かべ、心得た礼儀作法で挨拶を交わす。グラナド侯爵夫人のエミリアも、ロザリーを見つけるや否や駆け寄り、両手を取った。


「ああ、ロザリー様、よくお越しくださいました。今日も本当にお美しいわ! 皆さまも、お会いするのを楽しみにされていましたのよ。」


「ご招待いただきありがとうございます、侯爵夫人。少しでも夜会を盛り上げられるよう、私も精いっぱい楽しませていただきますわ。」


 にこやかに会話を交わす2人の様子に、周囲の貴族たちの目がさらに注がれる。ロザリーが気分を害していないかどうか、あるいはどんな態度を見せるかが注目されているのだ。


 夜会が始まり、グラナド侯爵家自慢の大広間には軽快な音楽が響く。貴婦人たちはドレスの裾を翻しながら優雅にステップを踏み、紳士たちはシャンパンを片手に会話を楽しんでいる。ロザリーのところにも、さまざまな貴族が挨拶にやってきた。その多くは、暗に“婚約破棄の噂”を話題にしたがっているのがわかる。


 たとえば、伯爵夫人の一人が囁くように声をかけてきた。


「ロザリー様、最近の殿下とのご関係……さぞかしお辛いことでしょうに、こうして夜会にいらしてすごいですわね。私などなら、恥ずかしくて部屋に閉じこもってしまいそうですもの。」


 言葉自体は同情を装っているが、内心では“本当のところはどうなの?”と探りを入れたいのだろう。ロザリーは苦笑しつつ答える。


「お優しいお心遣い、ありがとうございます。ですが、まだ正式に何も決まったわけではありませんし……。わたくしとしては、殿下が仰ることを尊重しようと考えているだけですわ。こんな場で落ち込んでいても、あまり意味がありませんもの。」


 あくまで涼しげに言い切ると、伯爵夫人は少し拍子抜けした様子を見せて退散していった。結局、自分の望むような“生々しい噂話”は拾えなかったのだろう。ロザリーは内心でため息をつきつつも、こういう駆け引きが社交界の日常だと割り切っている。


 その後も、何人かの貴族から似たようなアプローチが続く。中には明らかに「うちの息子の花嫁になっていただくのはどうかしら」と言外に迫ってくる者すらいた。以前なら遠慮がちに探っていたのに、ロザリーが“自由の身”になるのではないかという期待からか、積極的になっているのだ。こうした態度を見るたび、ロザリーは少し自嘲を感じる。


(ああ、これが現実なのね。王太子妃として“手の届かない存在”だった頃と違い、婚約破棄の噂が立った途端、こんなにも人の対応は変わるのだわ……)


 ただ、ロザリーは割り切っていた。人間関係は常に変動するものだし、力関係や打算が絡むのも当たり前のこと。今はこの流れを上手に利用しなければならない。自分を“被害者”や“捨てられた女”として見るのではなく、“まだ魅力的な貴族令嬢の一人”として、社交界での地位を確固たるものにしていく必要がある。


 その夜会の中盤あたりで、グラナド侯爵がロザリーのもとへ足早にやってきた。隣には人の良さそうな初老の男性がいる。侯爵が言うには、隣国シルヴェスター王国からの公使らしい。


「ロザリー様、ご紹介させていただきたい方がいるんです。こちらはシルヴェスター王国公使のエドゥアルド殿です。隣国との貿易拠点の話など、いろいろと興味をお持ちのようですよ。」


 そう言ってグラナド侯爵が促すと、公使のエドゥアルドは丁寧に礼をした。年の頃は五十代半ばか、穏やかな笑みが印象的だ。ロザリーは優雅な所作で挨拶を返す。


「はじめまして、エドゥアルド殿。ロザリー・フォン・アーデンと申します。お目にかかれて光栄ですわ。」


「これはこれは。お噂はかねがね伺っておりましたよ。貴国の商業や外交に長けた公爵令嬢がおられると。まさか、こんな形でお会いできるとは思いませんでしたが……どうか、よろしくお願いいたします。」


 エドゥアルド殿は柔らかな物腰で言葉を続ける。隣国シルヴェスター王国は、この数年で急速に国力を伸ばしている。特に農業と工業の連携が進み、王国周辺の小国にとって頼もしき隣国となりつつあるのだ。かねてよりアーデン家もシルヴェスター王国との取引を拡大したい考えがあったが、王宮の了解を得るのが難しかった背景がある。


「実は、わたくしの父もシルヴェスター王国との新しい交易ルートを開拓しようと、以前から尽力しておりました。もしエドゥアルド殿がご興味をお持ちならば、ぜひ具体的なお話をお聞かせいただければと思います。」


 ロザリーがそう持ちかけると、エドゥアルド殿は目を輝かせる。少し前までは“王太子妃の内定者”として、政治的に手が出しにくかった部分もあったが、今こうしてロザリー個人が改めて交渉の窓口になるのは、むしろ好都合かもしれない。お互いの国益が合致するならば、協力体制を強めるのは悪くない話だ。


「なるほど……。じつはシルヴェスター王国でも、貴国の高品質な織物や金細工に興味を持つ商人が増えておりましてね。私も、王都で商会の方々から“アーデン公爵家なら信頼できる”と噂を聞いていたんですよ。ぜひ前向きに協議させていただきたいところです。」


「それは光栄ですわ。詳しいお話は後日、また場を設けていただければと思います。父もきっと喜びますわ。」


 そう言って、ロザリーとエドゥアルド殿は軽く杯を合わせる。隣でグラナド侯爵が満足そうにうなずいた。この場にいる他の貴族も、アーデン家と隣国シルヴェスター王国との接触を好意的に見守っている様子だ。


(王太子妃の地位を失おうと、アーデン家はまだまだ影響力を持っている。それを私自身が示すことが、何よりの“反撃”になるのよ。)


 ロザリーは胸中でそう思いながら、優雅な笑みを浮かべた。いずれエドゥアルド殿がシルヴェスター王国の要人、さらには王族とも繋がっているならば、そこから新たな展開へとつながる可能性があるかもしれない。たとえ王太子を失ったとしても、ロザリーにはまだ多くの道が残されているのだ。



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王宮の混迷とエドワードの焦り


 一方その頃、王太子エドワード・カミル・レグノードは、自室のサロンでセシリアと二人きりで過ごしていた。たいていは甘い言葉を交わし合い、セシリアがいかに“聖女”としての奇跡を発揮できるかという話をしているらしい。だが、最近はやや様子が変わってきていた。


「セシリア……どうして、僕と一緒にいるとき以外は、あまり人前に出ようとしないんだ? 側近たちとも話をしようとしないし……まるで誰かを避けているように見えるけれど。」


 エドワードがそう問いかけると、セシリアははっと驚いたように顔を背ける。すぐさま流れるように涙を浮かべ、か細い声で訴えるのだ。


「そ、それは……私、皆さまに嫌われているんじゃないかと思って……。だって、私が殿下のご婚約を邪魔したと、皆さま思っているのでしょう……?」


「そんなことはない! 君の力は“聖女”として、王国に必要な奇跡をもたらしてくれるはずだ。皆にもそう言ってある。ただ、君が人々と交わらなければ、その魅力を伝えることもできないじゃないか……。」


 焦りを含んだエドワードの声に、セシリアは泣きそうな表情をする。まるで小動物が怯えるような仕草で、エドワードの胸元に顔をうずめた。


「殿下……ごめんなさい。私、昔から人前に立つのが得意じゃなくて……。それに、公爵令嬢のロザリー様のように何でもできるわけではありませんし……。」


 その言葉を聞いた瞬間、エドワードの脳裏にロザリーの姿がよぎった。確かにロザリーは聡明で、政治や外交にも精通し、経営の知識まである。周囲の期待も大きかったし、王太子妃として申し分ない存在だった。だが、自分は“真実の愛”を求めてセシリアを選んだのだ。それを今さら後悔するわけにはいかない。


「大丈夫だ、セシリア。ロザリーは確かに優秀かもしれない。でも、僕は君を選んだんだ。それに後悔はしていない。ただ……少しでも早く、君が王宮や貴族社会になじめるようにしてほしいんだよ。父上だって君のことをよく思っていない様子だし、貴族たちも味方が少ない。これでは……将来に不安が残るだろう?」


「ええ……でも……。」


 セシリアは言葉を詰まらせる。だが、その瞳は涙に濡れつつも、どこか怪しい光を帯びているようにも見えた。やがて、彼女は思い切ったようにエドワードの両手を握る。


「……私、殿下のために“奇跡”をもっと明確に示して差し上げたいんです。そうすればきっと、人々も私を信じてくれると思うの。でも、そのためには……“神殿”に行って正式な儀式を行わなければなりません。そこで祈りを捧げることで、神の声を聞くことができるの……。」


「神殿……か。わかった。父上や重臣たちに話をして、できるだけ早く手配するよ。そこまでしてくれるのなら、僕も力を貸す。」


 エドワードは、その“奇跡”というものを心の底から信じているわけではなかったが、今はセシリアの言葉にすがるしかない。ロザリーを失った上に、王宮や貴族たちの支持まで失うのは、王太子にとって致命的だ。まだ国王から正式に婚約破棄が承認されていないこともあり、エドワードは周囲から非難の視線を浴びている。ならば、この“聖女”としてのセシリアの力で状況を変えたい――そんな焦燥感が、彼を突き動かしていた。


(僕は間違っていない。愛を優先するのは当然だ。それにセシリアの力は本物だ。ロザリーにはなかった、神のご加護があるんだから……。)


 そう自分に言い聞かせ、エドワードはセシリアを抱きしめた。しかし、その胸の奥底には微かな罪悪感や不安が巣食い始めている。



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“アーデン家の令嬢”としての誇り


 グラナド侯爵家の夜会から数日後、ロザリーはアーデン家の領地から届いた書簡を整理していた。領地の管理や商会の運営については、主に公爵である父ルパートや、その補佐を務める執事・家令などが取り仕切っているが、ロザリーも若いうちから積極的に関わってきたおかげで、領民や商人からも意見が寄せられるようになっている。


「この書簡は領地北部の薬草農家の方からですね。先日ご提案した栽培方法について、試験的に実践した結果、収穫量が三割ほど増加したと……すごいです、ロザリー様!」


 リーゼルが嬉しそうに報告してくる。ロザリーは小さくうなずきながら書簡の内容を確認し、必要があれば対策や改善策をさらに書き添えて返事をしたためる。アーデン家の領地では、多様な農産物や薬草が生産されており、それらを適切に流通させることで王国の医療や商業にも貢献しているのだ。


「……いい感じね。まだ一部の農家だけでの試みだけど、うまくいけば領地全体に広げられるわ。そうすれば、結果的に王国の医療水準も向上するし、輸出品としても価値があるかもしれない。隣国との協議も進めれば、より発展が見込めるはずよ。」


 リーゼルは心から尊敬の眼差しを向ける。ロザリーは美貌だけでなく、本当に頭脳明晰で、先のことを見据えて行動できる人だ。王太子がこの女性を放り出すなど、正直、リーゼルには理解できない。


「……本当に殿下は、何を考えているのでしょうね。私、ロザリー様のように王国のことを真剣に思って行動してくださる方は、そうそういないと思うんですけれど。」


「もういいの、リーゼル。わたくしはあの方と無理矢理に関係を続けたいわけじゃないわ。殿下が選んだのはセシリアという人。それだけのことよ……。」


 ロザリーは悲しげに微笑むが、すぐに表情を引き締める。事実として、エドワードはロザリーよりもセシリアを優先した。そこに嘆きや哀れみを差し挟む余地はない。ロザリーは“公爵令嬢”として、自分の道を堂々と歩むだけだ。


 そのとき、扉をノックする音がした。ニコラスが入室してきて、ロザリーとリーゼルに軽く会釈する。


「失礼いたします。ロザリー様、少しお時間を頂戴してよろしいでしょうか。先ほど、宮廷筋から報せが参りました。近々“セシリア・ブランシュ殿が神殿にて儀式を行う”とのことです。」


「儀式……ですか?」


 ロザリーが首をかしげると、ニコラスは眉をひそめて続ける。


「はい。“聖女”を名乗る以上、公式に神殿で祈りを捧げ、奇跡を披露すると言われています。どうやら殿下が直接手配しているそうで、国王陛下は“馬鹿な”とお怒りとのことですが……。もしこの儀式で何かしらの奇跡が起これば、セシリア殿は王国の守護者として認められる可能性があります。」


「なるほどね……。そうなれば、わたくしが正式に婚約破棄されたとしても、王宮内でセシリアが絶対的な地位を築くことになる。エドワード殿下としては、何としてでも成功させたいでしょうね。」


 ロザリーはすぐに状況を飲み込む。もしセシリアが本当に奇跡を起こしてみせたなら、それこそ“聖女”として国の保護を受けるのは確実だ。王太子としても、自分の選択を正当化できる。それはすなわち、“ロザリーを捨ててもセシリアを選んだ”という行動が正しかったと世間に示すことになるだろう。


 だが、逆に言えば“奇跡など起きなかった”り、“儀式に不正があった”りすれば、彼らは一気に信用を失う。まさに、エドワードにとっては背水の陣だ。ニコラスは唸るように言葉を続ける。


「それだけでなく、この儀式には各国の使節や貴族たちも招かれるそうです。ロザリー様も、もしかすると招待されるかもしれません。……ですが、どうなさいますか? もし正式にご案内が来た場合、出席されますか?」


 リーゼルは心配そうにロザリーの横顔をうかがう。おそらく神殿での儀式は盛大に行われ、王太子と“新たな伴侶”の姿を見せつけられるような場面もあるだろう。その様子を見れば、ロザリーの心がどれほど傷つくか想像に難くない。


 しかし、ロザリーは小さく息を吐き、毅然と答えた。


「招待されれば、出席するわ。アーデン家の令嬢として、国の行事を軽々しく欠席するわけにはいきませんし。……それに、わたくしの目で直接確かめたいの。“聖女”とやらが、本当に神に選ばれた存在なのかどうかを。」


「ロザリー様……」


 リーゼルは一瞬、何か言いたげだったが、飲み込むように口をつぐんだ。ロザリーがこうと決めたなら、彼女は必ずそれを成し遂げようとする。それが自分で選んだ道なら、リーゼルは黙ってついていくしかない。


 そうして、王太子エドワードとセシリアが画策する“神殿での儀式”へ向けて、国全体が微妙な空気に包まれていく。民衆の間でも、“本当に奇跡が起きるのか?”という好奇心と、“王家はどうなるのか”という不安が入り混じり、さまざまな噂が飛び交った。

 一方、ロザリーは神殿の儀式の日まで、普段と変わらずアーデン家の仕事をこなし、社交界での集まりにも精力的に顔を出す。そこにはもう、悲嘆に暮れる少女の姿はなかった。ただ、静かに燃えるような覚悟の光を宿した“公爵令嬢”がいるだけだった。


(――王太子が何をしようと、わたくしはわたくしのやるべきことをやるまで。もし彼が自分の選択が正しいと信じて疑わないのなら、どうぞ好きになさい。けれど、真実は必ず表に出る。私たちがどれほど踏みにじられたかも、あなたたちがどれほど視野が狭いかも……いずれ、はっきりと証明されるでしょう。)


 ロザリーは自室の窓辺に立ち、夜空を見上げる。遠くで風が揺らす木々の音が、ざわざわと耳に届いた。月光を浴びながら、彼女は唇を引き結ぶ。自分が傷つけられたまま終わるなど、断じて認められない。

 ――王太子の誤算と破滅を誘う序章は、すでに始まっているのだ。




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