「――チッ、しぶとい野郎だ」
月明かりも届かぬ廃工場。錆びた鉄骨が歪み、得体の知れない粘液がぬらぬらと照光る床。
纏わりつく湿気に、流れる汗が首筋を伝い、僅かに開いた襟元へと吸い込まれていく。荒い息づかいが、逞しい胸板を上下させていた。
「卜部流退魔術・破魔二式――『
ピリ、と空気が裂けた。
壱武が印を結べば、退魔刀に蒼白い光が迸る。
対峙するは、非業の死を遂げた者たちの寄り集まり。怨念が形を成した怪異。黒い靄のような不定形の粘体に、数多の苦悶が浮かぶ。
そんな異形に囲まれていた。
光輝に照らされた怪異を、一太刀ッ!
しかし、裂かれれば分裂し、今度は四方八方から襲いくる。
「クッ、分裂するとはな。このままじゃジリ貧だっつの!」
多勢に無勢。
さすがの壱武も捌ききれず、左腕を鋭い怨念の爪に浅く切り裂かれる。じわりと血が滲み、瘴気の浸食を霊力で押し留めた。
先ほどからこの繰り返し、一体一体は小物だが数が多すぎる。
袖が破れ、肌に赤い線が走る。じわりと滲み出る鮮血の匂いが、怪異どもをさらに凶暴化させるようだった
そんな時だった。
「――ほう。見慣れぬ雑魚相手に、随分と手間取っておるではないか、卜部の小童」
嘲る声が、突如として響き渡った。背筋をぞくりとさせる抗い難い余韻。
「なっ……お前、なんでここにっ!?」
「我がどこで何を眺めようと、我の勝手よ。ほれ、余所見するでない」
反射的に、頭を下げた。空を切る爪が、毛先を刈り取る。
「クソッ、破魔三式――『
宙に飛び立つ呪符。結界が展開され、迫りくる怪異たちが弾け飛び、バチバチと焦げ臭い異臭を残して霧散。
だが、それも焼け石に水。後から後から、新たに湧いて出てくる。
「はぁ、はぁ……っ!」
肩で息をする壱武。
体力も霊力も、徐々に削られていく。顎先から汗が滴り、黒髪が額に張りついた。結界は長くは保たない。
梁の上の影が、くつくつと喉奥で嗤った。
「見苦しいのう、卜部の末裔ともあろう者がその程度か?」
「だ、まれッ! 手を、出すなッ!」
虚勢を張る壱武だが、既に息が切れつつある。
霊力の刃を振るい、怪異を散らし、術を放つが、やけに多く集まった怪異の群れに呑み込まれつつあった。
梁の上の存在は、つまらなそうに細められた瞳で壱武を見下ろすと、ふわり、と音もなく降り立った。
着物がゆれると、真っ白な肢体がちらりと露わになる。
「まあ、よし。……ここで死なれても、つまらぬが故な」
蝶が舞うように。指先から、漆黒の
「滅せよ、塵芥ども」
一瞥。
暗黒が竜巻のように、廃工場内を塗り潰しては薙ぎ払う。叫ぶ間もなく、怪異らは灰燼と化していく。
先ほどまで壱武を苦しめていた怨念が、いとも容易く蹂躙。
(くっ、まるで子供の遊びみてぇに……こんなっ!?)
やがて黒炎が収まると、ゆったりと“それ”は近づいて来た。
「まあ、これでよいか。……ほれ、笑え小童。面白い余興であっただろう?」
壱武は退魔刀を握り直す。濃密なまでの妖気に、肌が粟立つのを感じていた。
廃工場には静寂が訪れたが、引き換えに肌を刺すような緊張感で満たされる。むせ返るような、毒花の如き香りも。
「礼を言うつもりはねぇぞ」
「案ずるな。そのようなもの、端から期待もしておらぬわ」
今の自分では、到底太刀打ちできない。嫌でも理解させられる。
(未だ、格が違う――こいつを超えるために頑張ってんのに!)
“それ”はぴたりと止まると、美しい顔をわずかに傾げた。品定めするようなねっとりとした視線、唇がじわじわと弧を描く。
「さて。礼はきっちりとしてもらわねばな、卜部の小童。我は気まぐれだが、無償の施しをするほど寛大ではないのでな」
「……何が望みだ」
警戒を解かない様を、面白がるようにまたクツクツと嗤った。
細く白い指を伸ばし、そっと汗に濡れた襟元に触れた。ぞくり、と悪寒が走る。
「テメェッ、まさか
強靭な力で顎を掴まれ、引き寄せられる。
抗う間もなく、冷たい吐息が首筋にかかった。日に焼けた健康的な
――ガブリ。
鋭い犬歯が、容赦なく皮膚を貫く。呻きが、壱武の喉から漏れた。
「んぐっ…ぅっ…あッ?! おま、えッ!?」
生々しい感触、じゅるりと力が抜き取られる感覚。
腰が砕けそうになるのを、必死に堪えるも脱力するしかない。
だが、“それ”の腕が腰をしっかりと抱き寄せ、逃がさないとばかりに支えてきた。
「ふぅ。良いぞ、実に良い。滾るなぁ。やはり、卜部の血は格別よのう」
「その身体でっ、顔でっ! そんな
「うるさい奴じゃな。まだ、終わってはおらぬぞ、小童」
身体を弄られながら、また牙が皮膚を破るプツンと言う音を聞いた。ふたたび、脳が痺れ虚脱感が襲い掛かる。
「うぁああっ、やめ、ろっ! これ、以上はっ……!?」
身体の奥から、何かが湧き上がりそうになるのを、必死で理性で押さえつける。だが、自制心はじわじわと甘く溶かされる。
“それ”は何度も喉を鳴らし、さらに深く啜る。
「たの、むっ。もうっ……んぁっ、や、め、てくれっ……う、あっ」
絞り出すような抗議の声も、妖しく微笑む“それ”には届かない。むしろ、抵抗がさらに興奮させていた。
ああ、どれほどの時間を過ごしただろうか。
薄れゆく意識で見たのは、血に濡れた唇を艶かしく舐めずる。この世のものとは思えぬ幽玄なる瞳で見下ろす、魔の微笑だった。