由良が鈴音と去っていった後も、祭りは変わらず賑やかだ。
だが、一行の周りだけは、空気が氷のように張り詰めていた。結局のところ、仮面を鎮魂する儀には立ち会わねばならない。
「おい。行くぞ、千弥」
静寂を破ったのは、壱武。
由良が消えた神域へと続く暗がりを睨みつけ、千弥の腕を掴んだまま、歩き出そうとする。
「待ってください、壱武殿」
行く手を阻んだのは、贄川。顔に鉄のように、固い覚悟が浮かぶ。
「どけ、腰巾着。俺が行くのを、てめぇごときが止められるとでも?」
「いいえ。卜部家の嫡男である貴方様の武勇には、わたくしなど到底及びもいたしません。ですが!」
贄川は、楽しげに踊る村人や観光客たちを、すっと顎で示した。
「壱武殿が、この平和な『表の祭り』で騒ぎを起こせば、どうなりますか? 村はもちろん、卜部家、薬子家に泥を塗ることになりますよ。陰陽省のお偉い様方にとっても、大きな問題となるやもしれませんね」
「お前、俺を脅す気か?」
「まさか。ただ、事実を申し上げているまで。貴殿が力づくで儀式を妨害なされば、祝祭は混乱に陥り、罪のない人々に被害が及ぶ可能性もございます。国家護持の任を負う御方が、民を危険に晒すことなど、あってはならぬことではございませんか?」
寒水のような忠言だった。
『陰陽省の卜部 壱武』としての、責任ある立場を思い起こさせる諫め。
「待ちなさい、カズくん」
さらに、割って入ったのは真弥だった。最も若い彼女が一番、帝国を担う家柄としての責任を理解し、場を見据えている。
「止めるな真弥っ、あの小娘、千弥を連れてく気だぞ! この能天気はホイホイついて行きかねん!」
「それはわかってるわよ! 兄貴が馬鹿で単純なのは、生まれつきなんだからっ!」
「えっ、おれ、なんかひどいこと言われてるっ!?」
「でも、由良の言ったことにも一理ある。あんたが行けば、坂上田村麻呂の血を理由に、儀式が失敗する危険性はゼロじゃない。問題ないとしても、事を荒立てる口実を相手に与える方が、よっぽど危険よ」
真弥の瞳は、兄を見守る時とは違う、責任者としての鋭い光を宿していた。
政治的判断は鋭い。
「いい? 今は一旦、あたしに任せなさい。あたしは薬子家の人間。向こうも無下にはできないわ」
そして、壱武の目をまっすぐに見つめて、力強く言い放つ。
「あたしが兄貴と一緒に、『儀式』とやらに立ち会う。そこで万が一、危険だと判断したら、何をおいてもあんたに合図を送る。その時は、もう何もかも関係ない。遠慮なく、この祭りごと全部、ひっくり返してやりなさい」
「……真弥」
「いいでしょ、カズくん。あたしだって、花のJKだけど、薬子家の人間なのよ? 兄貴一人くらい、あんたが来るまで守ってみせるわ」
それは合理的な判断であり、覚悟の表明だった。
壱武がこの世で一番信頼を置く、もう一人の幼馴染からの、懇願にも似た説得。
壱武はギリ、と奥歯を噛みしめると、掴んでいた千弥の腕を、しぶしぶ離した。
「分かった。だが、何かあれば、即だ。分かってるな?」
「ええ、任せなさい。ただ、そうね。あたしが知らない範囲でのことなら、文句も言えないからね……バレないようにされたらなにもわからないわよ」
悪戯っぽく、真弥はウインクして来た。余計な小細工をするなら、上手くやれよ、見逃してやるから。そんな合図だった。
「えー? 二人ともなんか仲良くない? おれだけ除け者?」
「はあ、兄貴って本当に、鈍ちんね」
「むぅ。じゃあ、おれと真弥で行くの?」
「あたしと兄貴……それと贄川で行くの。カズくんは、ここで良い子にお留守番」
「おい」
「よし、決まりね! 行くわよ、兄貴!」
真弥は有無を言わさず、千弥を引きずりながら、由良が消えていった神域への道へと歩き出した。神社にある祭具殿のさらに奥深くへと向かう。
贄川も丁寧に一礼すると、後に続く。
「では、壱武殿。しばし、ごゆっくりと祭りをお楽しみください」
あっという間に、三人の姿は夜闇へと吸い込まれていった。
残された壱武は、燃え盛る篝火を睨みつけ、ポケットの中で強く拳を握りしめる。
耳に届く、楽しげな祭り囃子と、人々の屈託のない笑い声。
だが、今の壱武にとって、その全てが、煩わしく思えた。
(チッ。倉科、余計なことをしたら全員、ただじゃ済まさん)
焦燥感が、じりじりと心を焼いていく。
何もできないもどかしさと、言いようのない不安。
資格なき者。
残された者は、ただ、待つことしか許されなかった。