千弥は、そこにいたのが他でもない倉科 由良であることに、目を見張った。
先ほどまで、笛を吹きながら神事の舞を披露していたはず。なのに彼女は、いつの間にか輪から抜け出し、千弥の隣に音もなく佇んでいたのだ。
「あ、由良ちゃん。いや、すごいねー、さっき舞も、笛の音も」
「お褒めに預かり光栄です。ですが……千弥様のお顔は、あまり楽しまれているようにはお見受けできません」
由良は、人形のように整った顔を、儀式用の化粧で彩っていた。
飾られた美が、心配そうに小首を傾げる。仕草は年相応の少女のようでありながらも、どこか見透かすような神々しさ。
「あ……はは、そんなことないよー! すごく楽しい! ただ、ちょーっとだけ、人混みに酔っちゃったかなー、なんて」
千弥は、慌てて取り繕う。
なぜか、直感が告げている。この少女に気付いた違和感を悟られてはいけない。
だが、由良はそんな千弥を優しく手繰り寄せるように、言葉を続ける。
「そうですわよね。帝都からいらした方々には……この村の祭りは、風変わりで退屈かもしれません。しかし、村に根付いた神様――福白様を、心からおもてなしするためのものなのです」
「あっ、おれは退屈だなんて思ってないよ! ……でも、福白様か」
「そうです。皆が笑顔でいればいるほど、福白様もお喜びになり、村に幸をもたらしてくださるのです。だから皆、一生懸命に笑うのですわ。神様をお迎えするために」
一生懸命に。またなにかが、千弥の胸に小さく引っかかる。
「だけれど。千弥様には、視えてしまうのですね。笑顔の裏にある、心というものが」
どこか陶酔を帯びた音色で、由良は紡ぐ。
「八面大王様の悲しみも、福白様の喜びも。本当の意味で理解できるのは、千弥様のような、清らかな魂を持つ方だけなのでしょう。……だから、八面大王様も、きっと貴方様のことをお気に召したのですね」
由良はそっと千弥の手に、己の手を重ねた。じんわりとした温かさが伝わってくる。
「さあ、千弥様。わたくしと一緒に参りませんか? 貴方様だけが立ち入ることを許された、本当の神事の場所へ。そこで、福白様……いいえ、八面大王様と、もっと深くお話をしてみませんか?」
もっと深くお話をする。確かに、千弥は知りたいと思った。祭りの意味も、『歓喜の相』から受けた感情の意味も。
誘いに強い魅力を感じて。意識が、ふわりと浮き上がるような感覚に陥る。
由良の瞳に、昏い何かが、ゆらりと揺らめいた。
「おい」
地を這うような声が、甘い空気を裂いた。
壱武は、篝火の熱気にもよく似たオーラを纏う。
「人のモンに、気安く触ってんじゃねえよ」
眼光は、獲物を前にした猛禽類のように鋭い。由良に向けられた剥き出しの敵意。
壱武は、由良の手を乱暴に振り払うと、千弥の腕を掴んでぐいと自分へと引き寄せた。
「えっ。か、壱武?」
「あら、卜部様。舞の途中ではございませんでしたか?」
由良は、振り払われた手を気にする様子もなく、微笑みを崩さない。
「見ての通りだ。もう終わった」
「それはそれは、お疲れ様でございました。見てください、村の者たちのこの喜びよう。卜部様のご威光のおかげですわ。皆、感謝しております」
「フン。てめえらに感謝される筋合いはねえ。それより、千弥に何のようだ? こいつをどこへ連れていくつもりだ?」
「まあ、怖いお顔。ただ千弥様を、ご案内しようとしていただけですわ。退屈そうにされてましたから」
「ほほう? なら、俺も連れて言ってもらおうか」
「卜部様には……残念ながら、ご遠慮いただかなくてはなりません。わたくしが向かう先は、神域にございますから」
そこで言葉を止めてから、ゆっくりと、しかしはっきりと述べた。
「――少なくとも、貴方様には資格がありません」
平然と言い放つ由良に、壱武の眉がぴくりと動く。
「なんだと?」
「あら、お分かりになりませんか? 我らが福白様は、ご自身を鎮めてくださる優しい魂をお求めです。ですが、ご自身を討ち滅ぼした『坂上田村麻呂』の血を引く者を、決して歓迎はなさらないでしょう。……貴方様がおいでになるだけで、神様の安寧が乱れてしまいます」
それは、あまりにも理にかなった拒絶。
卜部の血筋であるが故に、この先の儀式には立ち会えない。陰陽省から派遣された任務の担当者でありながら、核心に触れることを、堂々と禁じられたのだ。
「面白いことを言うじゃねえか」
壱武に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「つまり、俺がいなけりゃ、この先の『神事』とやらは滞りなく進む、と。そういうことか」
「ご明察、痛み入ります。薬子家のお二人さえいれば、陰陽省の立ち合いは十分でございましょう?」
一触即発。今まで友好的だった態度から、一変して緊張が走った。
千弥は、思わず割り込んだ。
「なあ、壱武、由良ちゃん! 喧嘩はよせよ。せっかくの祭りなんだからさ」
その、あまりにも場違いな、間の抜けた仲裁。
聞いた由良は、ふふ、と花が綻ぶように微笑んだ。
「そうでしたわね。ごめんなさい、卜部様。わたくしとしたことが、すこし熱くなってしまいました。では、これから儀式がありますので失礼します」
すっと身を引いた由良は、最後に千弥にだけ聞こえるように囁いた。
「――八面大王様は、いつでも貴方様をお待ちしておりますわ」
言い残すと、由良はシャンシャンと鈴と共に歩き去っていく。
篝火のぱちぱちと爆ぜると、祭りの賑やかさが残された。