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第10話 歓びの儀へ誘う

 千弥は、そこにいたのが他でもない倉科 由良であることに、目を見張った。

 先ほどまで、笛を吹きながら神事の舞を披露していたはず。なのに彼女は、いつの間にか輪から抜け出し、千弥の隣に音もなく佇んでいたのだ。


「あ、由良ちゃん。いや、すごいねー、さっき舞も、笛の音も」

「お褒めに預かり光栄です。ですが……千弥様のお顔は、あまり楽しまれているようにはお見受けできません」


 由良は、人形のように整った顔を、儀式用の化粧で彩っていた。

 飾られた美が、心配そうに小首を傾げる。仕草は年相応の少女のようでありながらも、どこか見透かすような神々しさ。


「あ……はは、そんなことないよー! すごく楽しい! ただ、ちょーっとだけ、人混みに酔っちゃったかなー、なんて」


 千弥は、慌てて取り繕う。

 なぜか、直感が告げている。この少女に気付いた違和感を悟られてはいけない。

 だが、由良はそんな千弥を優しく手繰り寄せるように、言葉を続ける。


「そうですわよね。帝都からいらした方々には……この村の祭りは、風変わりで退屈かもしれません。しかし、村に根付いた神様――福白様を、心からおもてなしするためのものなのです」

「あっ、おれは退屈だなんて思ってないよ! ……でも、福白様か」

「そうです。皆が笑顔でいればいるほど、福白様もお喜びになり、村に幸をもたらしてくださるのです。だから皆、一生懸命に笑うのですわ。神様をお迎えするために」


 一生懸命に。またなにかが、千弥の胸に小さく引っかかる。


「だけれど。千弥様には、視えてしまうのですね。笑顔の裏にある、心というものが」


 どこか陶酔を帯びた音色で、由良は紡ぐ。


「八面大王様の悲しみも、福白様の喜びも。本当の意味で理解できるのは、千弥様のような、清らかな魂を持つ方だけなのでしょう。……だから、八面大王様も、きっと貴方様のことをお気に召したのですね」


 由良はそっと千弥の手に、己の手を重ねた。じんわりとした温かさが伝わってくる。


「さあ、千弥様。わたくしと一緒に参りませんか? 貴方様だけが立ち入ることを許された、本当の神事の場所へ。そこで、福白様……いいえ、八面大王様と、もっと深くお話をしてみませんか?」


 もっと深くお話をする。確かに、千弥は知りたいと思った。祭りの意味も、『歓喜の相』から受けた感情の意味も。

 誘いに強い魅力を感じて。意識が、ふわりと浮き上がるような感覚に陥る。

 由良の瞳に、昏い何かが、ゆらりと揺らめいた。


「おい」


 地を這うような声が、甘い空気を裂いた。

 壱武は、篝火の熱気にもよく似たオーラを纏う。


「人のモンに、気安く触ってんじゃねえよ」


 眼光は、獲物を前にした猛禽類のように鋭い。由良に向けられた剥き出しの敵意。

 壱武は、由良の手を乱暴に振り払うと、千弥の腕を掴んでぐいと自分へと引き寄せた。


「えっ。か、壱武?」

「あら、卜部様。舞の途中ではございませんでしたか?」


 由良は、振り払われた手を気にする様子もなく、微笑みを崩さない。


「見ての通りだ。もう終わった」

「それはそれは、お疲れ様でございました。見てください、村の者たちのこの喜びよう。卜部様のご威光のおかげですわ。皆、感謝しております」

「フン。てめえらに感謝される筋合いはねえ。それより、千弥に何のようだ? こいつをどこへ連れていくつもりだ?」

「まあ、怖いお顔。ただ千弥様を、ご案内しようとしていただけですわ。退屈そうにされてましたから」

「ほほう? なら、俺も連れて言ってもらおうか」

「卜部様には……残念ながら、ご遠慮いただかなくてはなりません。わたくしが向かう先は、神域にございますから」


 そこで言葉を止めてから、ゆっくりと、しかしはっきりと述べた。


「――少なくとも、貴方様には資格がありません」


 平然と言い放つ由良に、壱武の眉がぴくりと動く。


「なんだと?」

「あら、お分かりになりませんか? 我らが福白様は、ご自身を鎮めてくださる優しい魂をお求めです。ですが、ご自身を討ち滅ぼした『坂上田村麻呂』の血を引く者を、決して歓迎はなさらないでしょう。……貴方様がおいでになるだけで、神様の安寧が乱れてしまいます」


 それは、あまりにも理にかなった拒絶。

 卜部の血筋であるが故に、この先の儀式には立ち会えない。陰陽省から派遣された任務の担当者でありながら、核心に触れることを、堂々と禁じられたのだ。


「面白いことを言うじゃねえか」


 壱武に、獰猛な笑みが浮かんだ。


「つまり、俺がいなけりゃ、この先の『神事』とやらは滞りなく進む、と。そういうことか」

「ご明察、痛み入ります。薬子家のお二人さえいれば、陰陽省の立ち合いは十分でございましょう?」


 一触即発。今まで友好的だった態度から、一変して緊張が走った。

 千弥は、思わず割り込んだ。


「なあ、壱武、由良ちゃん! 喧嘩はよせよ。せっかくの祭りなんだからさ」


 その、あまりにも場違いな、間の抜けた仲裁。

 聞いた由良は、ふふ、と花が綻ぶように微笑んだ。


「そうでしたわね。ごめんなさい、卜部様。わたくしとしたことが、すこし熱くなってしまいました。では、これから儀式がありますので失礼します」


 すっと身を引いた由良は、最後に千弥にだけ聞こえるように囁いた。


「――八面大王様は、いつでも貴方様をお待ちしておりますわ」


 言い残すと、由良はシャンシャンと鈴と共に歩き去っていく。

 篝火のぱちぱちと爆ぜると、祭りの賑やかさが残された。

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