目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第17話 エピローグ~平穏の裏で、魔は嗤う

 あれから、数週間が過ぎた。

 帝都には、徐々に秋の気配が訪れつつある。

 大学のケヤキ並木は黄金こがねに染まり始め、カフェテラスを抜ける風は心地よい。


「んん~! このカツカレー、当たりだ! スパイスが効いてて最高! 壱武、一口食う?」

「いらん、俺は親子丼の気分なんだ。味が混ざる」

「えー、分けてあげようと思ったのに。ちぇっ」


 千弥は、スプーンいっぱいにカレーを頬張った。サクサクの衣、じわりと広がるスパイスの辛さ。平和の味がする。


「ったく、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはお前のためにある言葉だな」


 壱武は育ちがわかる所作で、親子丼を食しながら言った。

 千弥は例のごとく、大嶽丸が顕現していた記憶が、綺麗さっぱり抜け落ちている。


「なんかさー、気づいたら滅茶苦茶疲れててさ、三日三晩寝込んじゃったんだろ? 夏の風邪だったのかなぁ」


 などと呑気に宣っていた。まあ、彼にとってはその方が幸せだろう。壱武はなにも言わずに、みそ汁の出汁を味わった。


「あ、いたいた! あんたたち、こんなとこで油売って!」


 残るたくわんを巡って、押し問答を始めていると、セーラー服姿の真弥が、どかりと腰を下ろした。


「報告書、ちゃんと提出し直したでしょうね? 特に兄貴、ほぼすごい、やばい、うぉー、しか書いてなかったわよ。小学生の感想文じゃないんだから」

「だって、おれ、あんま覚えてないんだもん! 気づいたら、ぜーんぶ終わってたし!」

「それが一番、タチが悪いっつの」


 真弥は、やれやれと首を振る。


「結局、『歓喜の相』は、現場から忽然と消えちゃったしね。鬼面衆の残党が持ち去ったのか、はたまた面自身が動いたか。後味悪い結末だったわ」

「倉科のジジイは死んだ。捕らえた鬼士どもは、陰陽省の地下で丁重に『お客様』扱い。だが、肝心の首領は取り逃がしたまま」

「倉科家は、謝罪と今後の全面協力を申し出てくれたけど。一族自体は悪意を持っていなかったのだから、むしろ一番の被害者よね」


 平穏は戻った。しかし、事件の火種は、まだ確かにこの世のどこかで燻り続けていた。


 講義を終えた、夕暮れの帰り道。

 二人並んで歩いていると、千弥が不意に口を開いた。


「なあ、壱武。おれ、またなんかやらかした?」

「なんだよ、急に」

「最近さ、お前がたまに、おれのこと、じーっと見てることあるよな?」


 どきり、と壱武の心臓が跳ねる。

 壱武は、微かに残る首筋の噛み跡を、無意識に指でなぞっていた。

 「覚えておけよ――壱武め」と、見上げてきた、あの満足げに燃える紅い瞳が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


「いや、何でもねえよ。お前に変な寝癖がついてただけだ」

「朝の時点で言えよ!? え、どこどこどこ!?」


 無視して、壱武はバツが悪そうにポケットに手を突っ込み、歩調を速めた。

 結局のところ、奴が同じ顔をしているのがよくないのだ。千弥がそんな顔で己を見てくるはずがないのに。


「いずれにせよ、こいつは俺のモンだ」


 それについて、壱武は譲る気はない。



***



 ――後日。

 千弥は一人、雑踏に揉まれながら、駅の改札を抜けようとしていた。


(あれ、いつもここに入れてるのにな? おっかしいな)


 学生鞄のサイドポケットを探るが、見当たらない。

 わちゃわちゃと慌てて、鞄の中身をぶちまけん勢いで探していると、背後から声をかけられた。


「おや。おにいさん、もしかして、これを探していませんか?」


 そこにいたのは、息をのむほど整った顔立ちの美少年だった。

 さらりとした黒髪に、吸い込まれそうなほど大きな瞳。人懐っこい笑顔は、何故か、あの村で会った健気な少女『由良』を彷彿とさせた。


「あ、ありがとう! そう、これ探してたんだ! 助かったよ!」


 差し出されたパスを受け取ろうとして、千弥はふと、少年の耳元にある違和感に気づいた。


「あれ、きみの耳……?」


 少年の左耳には、まるで鋭利な刃物で一息に削ぎ落されたかのような、生々しい傷跡があったのだ。耳たぶそのものが、綺麗に存在しない。


 視線に気づいた少年は、悪戯が見つかった子供のように笑い、傷跡に愛おしげに触れた。


「ああ、これですか。ふふ、ちょっと、ボク、色々事情がありまして」


 少年は、どこか誇らしげに、うっとりと恍惚の表情で続けた。


「――尊敬する方と、お揃いなんです」


 千弥の背筋を、ぞくりと悪寒が走る。

 片耳を削がれ、追放された八面大王の配下たち。その逸話を、嫌でも思い出してしまった。


「ふふ、おにいさんは本当にお優しい人なんですねぇ。まだ悲しんでくださってる」

「きみは……いったい」

「じゃあ、ボクはこれで」


 少年はひらりと手を振ると、雑踏へと消えていこうとする。

 その、去り際に。

 振り返り、千弥の耳元にだけ、こう囁いた。


「また、お会いしましょうね、優しいおにいさん」


 ふわり、と花が綻ぶように微笑む。


「たぶん、そう遠くないうちに」


 蜂蜜のように、蜘蛛の糸のように粘りつく、蠱惑的な響き。


 千弥は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。雑踏の音も、行き交う人々の姿も、何もかもが遠くに感じられる。

 ポケットの中で、スマホが震えた。画面には、壱武からの簡潔なメッセージ。


『陰陽省から最終報告だ。例の安曇の洞窟、奥の縦穴から、一体の白骨死体が発見されたらしい』


 メッセージは、続く。


『死後、数年以上は経過している、十代の少女の遺体。所持品、歯形から身元は倉科 由良で間違いない、と』


 冷たい汗が、千弥の首筋を、つうっと伝い落ちていった。

 列車の車輪が、駅へと駆け抜けてくる。次なる厄災の始まりを告げる、先触れのように。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?