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第16話 俺のモンだ

「ようやく、来たか。待ちくたびれたぞ、卜部の小童」


 “千弥”――大嶽丸は、ゆっくりと振り返った。鈍く輝く赤い双眸が、愉しげに入り口に立つ男を捉える。


「人を余興扱いすんじゃねえぞ、大嶽丸」


 壱武は掠れ声を発しながらも、鋼のような意志で対峙した。

 道中の鬼士たちは、すべて沈黙させた。だが、代償は小さくない。

 破れた浴衣から覗く肌は切り傷と銃創にまみれ、じくじくと熱を持った痛みが全身を苛んでいた。


「既に、死に体の有様で、我に挑むと申すか。相まみえる前に、雑魚相手に手間取ったと見えるのう。実に情けない」


 大嶽丸は、千弥の顔で、くつくつと喉を鳴らす。無垢な貌が浮かべる嘲笑は、壱武を逆撫でした。


「うるせぇ。あいにく鬼畜生と違って、こちとら人間様でな。剣だの銃だの向けられりゃ、傷くらい負うんだよ。……いいから、そいつから離れやがれ」


 壱武の視線は、太刀を喉元に突き付けられた由良に向く。

 大嶽丸は、気づくと、心底つまらなそうに「フン」と鼻を鳴らし、由良を乱暴に突き飛ばした。

 「きゃぁあっ」と短い悲鳴が、湿った洞窟に虚しく響く。


「そう妬くな。この童は、単なる暇つぶしよ」


 大嶽丸の紅眼が、ぎらりと壱武を見据える。


「久方ぶりに戯れるのだ。また、我を愉しませてくれるのであろうな?」


 ビリビリと空気が震える。二人の間を、凄まじい霊気の奔流が渦巻いていた。

 金縛りで動けない真弥は、ただ息を詰める。


(ダメだ! 今のカズくんは消耗しすぎてる! まともにやり合えば、本当に一瞬で殺されるっ!)


 だが、壱武は引かなかった。

 血が滲む足で、一歩、また一歩と、大嶽丸へと引きずるように近づいていく。


「てめぇが、誰だろうが関係ねえ。一つだけ言っておいてやる」


 壱武から残された霊力の全てを絞り出すように、闘気が立ち昇る。


「――その身体は、俺のモンだ。さっさと、千弥を返しな、外道」

「ほう。己の立場を、まだ弁えぬか。生意気な物言い……実に、癇に障る」


 大嶽丸は、心底愉快そうに、しなやかな唇の端を吊り上げた。


「――なっ!?」


 それは唐突。

 腹部に、破城槌が如き衝撃が叩き込まれた。思考も反応も、全く追いつかない。


「ぐ……ぉっ!?」


 壱武の強靭な身体が、木の葉のように軽く「く」の字に折れ曲がり、背後の岩壁に叩きつけられる。

 肉が岩を打つ鈍い音。視界が赤く染まり、口から鉄錆の味のする血反吐を吐きながら、うずくまった。


「カズくんっ!」


 いつのまにか、壱武の眼前に大嶽丸が立つ。移動や攻撃の途中経過がまるで、認識できない。


「言ったはずだがのう? 我を、愉しませろ、と」


 大嶽丸は、倒れた壱武の髪を無造作に掴み、顔を引き上げさせた。赤い瞳が覗き込む。


「だが、どうだ。このザマは。虫の息ではないか。これでは、玩具にもならんぞ」


 絶対的な捕食者が見せる、侮蔑の視線。

 だが、壱武は流血する唇の端を、にぃっ、と吊り上げた。


「……約束、してんだよ」


 ぜえ、ぜえ、と息をしながら、途切れ途切れに紡ぐ。


「なにが、なんでも……いざって時は……『千弥』を、止めるってな」

「口だけは達者か。で、どう止める? その気になれば、我は貴様の命など、いつでも吹き消せるというのに」


 大嶽丸は嘲笑う。

 白く細長い指が、壱武の乱れた浴衣を、さらにはだけさせた。鍛え上げられた胸板、浮き出た鎖骨の窪みを、つぅっと挑発的になぞり始める。

 爪が、熱い皮膚の上を滑るたびに、ぞくり、とした悪寒と、それに相反する痺れが背筋を走った。


「くっ、ふっ、はあっ。ふざけ、やがって……」


 屈辱的な愛撫。だが、壱武の蒼い瞳から、闘志の光は消えていない。

 むしろ、危険に燃え盛ってすらいるのを、大嶽丸は見逃さなかった。


(そうだ。この眼だ。それでこそ、我が宿敵と…‥あの女の末裔よ)


 数百年の時を超えた執着が、大嶽丸の心を昂らせる。

 愉悦に浸り、その獰猛な輝きを間近で見ようと、己の顔を近づけた。冷たい吐息が、壱武の頬を撫でた。


「――なあ、大嶽丸。ちぃと、耳を貸しな」


 不意に、掠れた声で、壱武が囁いた。虫の息の男が発するとは思えぬほど、妖しく、とろりと甘い響きを帯びて。

 意外な響きに、大嶽丸は誘われるように動きを止め、耳を傾けるように、ほんのわずかに顔を傾けた。


 それが、王者の油断。

 それが、狩人の勝機。


 ガッと、大嶽丸の細い首が掴まれた。

 さっきまでの瀕死の状態が嘘のような、凄まじい膂力で。

 そして――。


 唇が、暴力的に塞がれた。


「んむっ!? ぐぐっ?!」


 誰もが、息を飲んだ。

 金縛りに動けぬ真弥も、恐怖に慄く由良も、何が起きたのか理解できず、ただ目を見開く。


 壱武が、大嶽丸――千弥の身体を乗っ取った魔王に、深く深く、口付けていた。

 ねじ伏せるような、喰らいつくような、あまりにも獰猛な接吻。

 血が混じり粘つく舌が、抵抗する唇の合わせをこじ開け、口腔内を蹂躙。歯列をなぞり、上顎を撫で、拒絶する舌を絡め取る。粘膜が所有権を主張した。


 そして、壱武の舌の上から、小さな丸い何かが、大嶽丸の喉奥へと、するり、と滑り落ちていった。


「――っ、ごぷっ」


 大嶽丸は、驚愕に目を見開くと、壱武を突き飛ばした。


 だが、もう遅い。

 壱武は、血と唾液で濡れた己の唇を、舐めずると勝ち誇ったように笑った。


「何を、飲ませたっ! 貴様ァッ!」


 大嶽丸が、焦燥に声を荒げる。

 身体の内から、急激に力が削がれていく。酒に酔ったかのように、視界がぐらりと揺らぎ、膝が笑う。


「ああ? お前らみてぇな、大鬼の大好物に決まってんだろうが」


 壱武は、確かな足取りで立ち上がった。口ぶりは、傲慢な悪党そのもの。


「卜部家に伝わる、鬼殺しの秘策……かの頼光様が、かの酒呑童子を酔わせ、討ち取ったと言われる、絶世の神酒よ!」

「ぐっ!? この我が力が、抜けていく、だと……」

「知らねぇのかよ。まあ、無理もねぇか。お前の時代より後の話さ。だがな、鬼を討った英雄が、てめぇを封じた坂上田村麻呂様だけだと思ってんじゃねぇ。俺の家は、代々、てめぇらみてぇな鬼をブチ倒してきてんだよ」


 卜部家に伝わる切り札。

 神仏から授かりし、神便鬼毒酒しんべんきどくしゅ。神格を持つ鬼でさえ、力を一時的に麻痺させ、無力化する薬酒。

 これを常に奥歯の裏に、小さな丸薬として仕込んでいた。それこそが壱武の秘策だった。


「な、ぜ……なぜ、卜部の小童ごときが、このようなモノをっ」

「それが俺の役目だからだ。いつか、必ずてめぇを止めなきゃならねえ時が来るって、分かってたからな」


 とうとう大嶽丸は膝をついた。圧倒的だった王の気配が、急速に萎んでいく。


「言ったはずだぜ、大嶽丸」


 満身創痍の身体を引きずりながら、壱武は再び、その魔王の前に立つ。


「――その身体は、俺のモンだ」


 今度は壱武が、顎を掴み、美しい顔を引き上げさせた。

 濡れた紅い瞳には、屈辱と、信じがたいものを見るかのような怒りが渦巻く。


「さて。美味かったかよ、酒と俺の血の口移しハイブレンドは? ほら、味の感想を言ってみろ」


 にやり、と。

 傷だらけの退魔師が、膝をつく最凶の魔王に向かって、不遜に色気を以て笑いかけた。


「覚えておけよ、小童。いや――壱武め」


 見上げる大嶽丸の、栗色の分け目から覗く紅眼は。

 どうしてか、してやられた者にしては、炎のように熱く、満足げに燃えていた。

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