「知りたければ、自分で聞けばいい。」
紀康はそう言い捨てて、自室へ戻った。
拓海が体調を崩して以来、梨紗は家に戻ろうとしなかった。紀康は使用人たちに、主寝室を片付けなくていいと命じていた。
拓海は子供用の携帯電話を手に、何度も梨紗の番号をかけ続けた。
受話器から響く長い呼び出し音に、期待に満ちていた表情も徐々に曇り、やがて落胆に変わっていく。
着替えを済ませて階下に降りた紀康は、元気のない息子の様子に気づき、眉をひそめて尋ねた。
「どうした?」
「ママ、五回もかけたのに……」
拓海の声には不満と寂しさが滲んでいた。
以前なら、梨紗は絶対に電話を逃さなかった。幼稚園の時、先生からの連絡を恐れて、常に携帯を手放さず、着信があればすぐに出ていた。
ただの夫婦喧嘩で、息子の電話まで無視するとは――紀康の顔色は険しくなり、拓海を抱き上げる。
「さあ、お風呂に入ろう。」
その時、拓海の携帯が突然鳴り出した。おなじみの着信音が響く。
「ママだ!ママからだ!」
拓海はすぐに腕の中から抜け出そうとした。
「もしもし、ママ!」
拓海の声は一瞬で明るく弾んだ。
受話器越しに息子の無邪気な呼びかけが聞こえ、梨紗の心は不意に揺れる。
「拓海?」
「ママ、なんで出てくれなかったの?何回もかけたのに!」
拓海の声には、小さな抗議が混じっていた。
大事に育ててきたわが子。どんなに離れようとしても、その絆は簡単に断ち切れるものではない。
「ごめんね、さっきまでちょっと用事があったの。どうしたの?」
「ママ、いつ帰ってくる?ママのご飯が食べたいし、会いたいよ。」
珍しく甘えるような声だった。
「今日は無理だけど、明日なら……」
梨紗がそう答えると、拓海は一瞬戸惑いを見せた。
明日は小学校の入学式。パパと早乙女さんと三人で行くのを心待ちにしていた。もしママが来たら……。友達の何気ない噂話を思い出し、胸の奥にわずかな後ろめたさがよぎる。
今、ママが来なくてよかった。
きっと明日も来ないだろう。
拓海は梨紗が気が変わらないうちにと、すぐに通話を切った。
顔には満足そうな笑みが戻り、紀康に向かって「パパ、お風呂行こう」とせがむのだった。
梨紗は暗くなったスマートフォンを静かに見つめていた。
息子の気持ちなど、痛いほどわかっている。初めて若菜に会った日、拓海は無邪気にこう言ったのだ。
「ママ、あの人のほうがキレイだね。」
母親こそ子供にとって一番――その神話は、その瞬間に崩れ始めていた。あの一言を口にしたとき、すでに心の天秤は傾いていたのだ。
翌朝、梨紗がまだ眠っていると、スマートフォンの着信音がしつこく鳴り続けた。親友の早川思織からだった。
「梨紗!今どこにいるの?今日、拓海の入学式なのに、なんで来てないの?誰が一緒にいるか知ってる?神崎さんと、あの早乙女さんよ!」
思織の声は焦りと怒りに満ちていた。
梨紗は特に驚くことなく、落ち着いた声で答えた。
「うん。」
「“うん”じゃないでしょ!写真送ったから、見て!三人が並んで、まるで仲良し家族じゃない。先生は、若菜が拓海の本当の母親だと思ってるみたいよ!あんたはどう思ってるの?」
梨紗はLINEを開いた。写真が何枚も届いている。
紀康は凛々しい立ち姿で、若菜は優しく微笑み、二人で拓海の手をとっていた。拓海は若菜を見上げて、笑みを浮かべている。
背景には新しい小学校の門が輝き、どこから見ても“理想的な家族”そのものだった。
「離婚しようと思う。」
電話の向こうで、一瞬、言葉が途切れた。しばらくして、思織が動揺まじりに問い直した。
「結婚してから、私がどんな毎日を送ってきたか、一番よく知ってるでしょ。」
思織は、さらに長く沈黙したあと、安堵したような声を漏らした。
「よく決めたね!そんなところ、早く抜け出すべきだって。やっと決めてくれて本当に……うれしい!」
彼女は梨紗が小学生の頃からの親友だ。結婚前のきらきらした瞳が、今ではすっかり疲れ切っているのを、間近で見てきた。
だから、梨紗がこの決断を下したこと、その覚悟も、痛いほど理解している。
「でも……あの女に譲るのは、悔しくないの?」
「譲るんじゃない。ただ、もう気にしないだけ。」
「よかった!ほんとによかった!今夜、お祝いしよう!久しぶりに飲みに行こうよ!」
「ごめんね、最近ちょっと体調が悪くて。」
「え、大丈夫?」
「ちょっと風邪気味なだけ。すぐ治るよ。」
本当のことを言えば、思織はきっと黙っていない。最近、中絶したばかりだと知られれば、彼女は紀康のところへ怒鳴り込むかもしれない。でも、何をしても、失った子どもが戻るわけじゃない。ただ、苦しみが増すだけだ。
「じゃあ、また今度様子見に行くからね。」
思織はそう言って電話を切った。
梨紗はスマートフォンをいじりながら、ニュースサイトをざっと見て回った。
学校の門は大勢の人で賑わっていたし、若菜のことを知っている人も多いはず。紀康と一緒に子どもを連れていたら、ゴシップ記事で持ちきりになってもおかしくない。
なのに、どこにもそんな話題は出ていない。
それは、紀康が許さないからだ。
彼はかつて、メディアにこう宣言した。
「若菜に関するデマを書いたら、神崎財閥を敵に回すことになる」と。
この「守り」は、梨紗には与えられなかった。
思い返せば、かつて撮影現場で一人の男優からしつこく付きまとわれた時、梨紗がきっぱり断ったにもかかわらず、逆にその男は「誘惑された」とマスコミに訴えたことがあった。
その時、紀康はどこにいたのだろう。
冷ややかに傍観し、何一つ助けてくれなかった。
そう、「神崎家の奥様」という名ばかりの立場。
公に認められることもなく、彼女の苦しみも、神崎財閥には関係のないものだった。