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第十話 彼の心は彼女に向けられたことがなかった


「梨紗、最近全然顔を見せてくれないけど、いつ家に来るの?」


書きかけの台本がちっとも進まず、気分転換をしたかった梨紗は、

「おばあちゃん、今日これから行くね」と返事をした。


「そうそう、今日は拓海の小学校の初日でしょ?プレゼントを用意したから、来るついでに渡してあげてね。」


祖母は、梨紗が命がけで産んだ外孫の拓海をとても可愛がっていた。

紀康が梨紗に冷たいことを知りつつ、拓海には本気で愛情を注いでいるのも分かっていた。


祖母を待たせたくなくて、簡単に支度をして出かけようとした時、神崎宗一郎から電話がかかってきた。


「梨紗、朝は拓海を学校まで送っていったんだろう?どうだった?うまくいった?」


家のことがあると、宗一郎はいつもまず梨紗に連絡するのが習慣だった。


「うん、拓海は新しい学校も先生もすごく気に入ってるよ。」

梨紗は胸の奥の寂しさを押し隠し、できるだけ明るく答えた。


「その学校を見つけるのに、いろいろ頑張ってくれたよな。拓海や紀康のために、どれだけ尽くしてくれているか、ちゃんと分かってるよ。」

宗一郎は少し間を置いてから続けた。

「紀康はそばにいるか?ちょっと代わってくれる?」


梨紗は一瞬息をのむ。

宗一郎は身体が弱いが勘は鋭い。今日、紀康が一緒に子どもを送らなかったことを察して、あえてこう言っているのだろう。


梨紗はごまかすように「お父さん、さっきおばあちゃんから急かされて、今すぐ出なきゃいけないの」と言って、慌てて電話を切った。


宗一郎の「今夜は紀康も一緒に帰ってきて夕飯を食べよう」という言葉は、喉元で止まったままだった。

宗一郎はもう一度紀康に直接電話をかけようとしたが、雅子に止められた。


「分かってるくせに今さら電話してどうするの?紀康があんたの言うことなんて聞くわけないでしょ。」

雅子はきつい口調で言い放った。


「俺は自分の息子を信じてる。これだけ長い間一緒にいて、梨紗に全く気持ちがないなんてことはないはずだ。」


「気持ち?あんたが無理やり紀康に梨紗と結婚させなきゃ、とっくに若菜と結婚してたわよ!」


雅子が若菜の名前を出すと、宗一郎は顔をしかめた。それは梨紗のためではなく、若菜自身に良い印象を持っていなかったからだ。


「ダメよ、かけさせない。二人ともまだ若いんだし、もし本当にうまくいかないなら、あなたももう口を挟まないで。私はただ、うちの子が幸せになってくれればそれでいいのよ!」


若菜はここ数年、雅子にたびたび贈り物を送り、すっかり気に入られていた。梨紗が若菜の代役をしていることも雅子は知っていたが、宗一郎には黙っていた。


宗一郎は妻の本心を知らず、ただ息子が梨紗を大事にしないことを残念に思っていた。

きっと後悔する日が来る、と。


……


梨紗が祖母の家に着くと、祖母はしっかりと梨紗を抱きしめた。


「おばあちゃん、会いたかったよ。」


「顔色、あまり良くないね。ちゃんと休んでるの?」


昔、神崎家が腎臓移植を求めてきた時、祖母は大反対した。

しかし梨紗は紀康が幼い頃の恩人だと知り、恩返しのためどうしても腎臓を提供したいと願った。

腎臓が一つになり、出産の時も命を落としかけた梨紗を、祖母は会うたびに心配していた。


「大丈夫よ、おばあちゃん。ただ最近ちょっとダイエットしようかなって。」


「何言ってるの!もう十分痩せてるのに。元々体が弱いんだから、もっと自分を大事にしなさい。」


「分かった、おばあちゃん。」

梨紗はそっと祖母にもたれた。母がいなくなっててから、祖母は彼女にとって一番大切な存在だった。


祖母は、拓海へのプレゼントを用意していた。きれいに包装された大きな箱だ。


「帰ったら絶対開けちゃだめよ。拓海に自分で開けさせてね。」


「うん、分かった。」


祖母は梨紗の手を握りしめ、何か言いかけて、「紀康は……いや、やっぱりいいわ。お昼は一緒に食べていって」とだけ言った。


梨紗はうなずいた。

離婚の話は、まだ祖母には言うつもりはなかった。すべて片付いてから伝えようと考えていた。


食事の席で、梨紗はさりげなく尋ねた。


「おばあちゃん、最近おじいちゃんは会社のこと何か言ってた?」


「会社のことは心配しなくていい。おじいちゃんがちゃんとやってるから、あなたは自分のことだけ考えてなさい。」


祖母は手を振って取り合わなかった。


でも梨紗の心配は消えない。

紀康が藤原家にいくつか小さな仕事を回したものの、神崎家が本気で藤原家を支援する気がないことは周囲にも伝わっているようで、数回の取引で途絶えてしまった。

藤原家の会社は経営が苦しい。家族は梨紗に頼ろうとせず、会社のことも口を出させてくれない。


「おばあちゃん、会社も芸能関係に手を広げてみたらどうかな?」


「だから、会社のことはいいの!今日はあなたとご飯を食べるために来てもらったのよ。」


梨紗はそれ以上何も言えなかった。


午後はしばらく祖母と話をして、祖母が昼寝に入ると、梨紗は家を後にした。今日は若菜が用事で撮影現場に行かなくてよく、代役の出番もなかった。



拓海の下校時間が近づき、梨紗はスーパーで食材を買い込んだ。店を出ると、道端で小さな女の子が泣きながら立ち尽くしていた。


周囲には大人の姿が見当たらない。梨紗は急いで近づき、しゃがみ込んだ。


「どうしたの?」


女の子は手を下ろして、涙でいっぱいの大きな瞳を見せた。


「おばあちゃんが見つからないの……」


梨紗は優しく問いかけながら、祖母の特徴を聞き出そうとしたが、うまく説明できない様子。

そこで携帯を取り出し、「大丈夫だよ、おばあちゃんの電話番号分かる?お姉さんの携帯でかけてみよう」と声をかけた。


女の子はうなずいて、梨紗の携帯を使い祖母に電話をかけた。


しばらくして、慌てた様子の年配の女性が駆けつけ、梨紗に何度も頭を下げた。


「本当に助かりました!ちょっと目を離した隙にいなくなってしまって……ありがとうございました!」


「お子さんが無事で良かったです。これからは気をつけてくださいね。」


祖母と孫に別れを告げ、梨紗は車で神崎家へと向かう。

約一か月ぶりに足を踏み入れるその家は、目に映るすべてが妙に遠く、どこかよそよそしく感じられるのだった。


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