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第十一話 もしも知っていたなら


梨紗が車を降りた瞬間、澄んだ子供の声が耳に飛び込んできた。


「えっ、お姉さんもここに住んでるの?」


声の方を見ると、スーパーで会ったことのある少女サヤが駆け寄ってくるところだった。


「走っちゃだめよ、転んじゃうわよ!」と梨紗は慌てて声をかける。


その言葉が終わらないうちに、サヤは足をもつれさせて転んでしまった。


梨紗は急いでサヤを抱き起こし、軽くほこりを払ってケガがないか丁寧に確認する。

細い腕に擦り傷ができているのに気づき、そのままサヤを抱えて家へと入った。後ろからついてくるサヤの祖母に向かって、


「少し擦りむいてしまいました。手当てしますね」


そのとき、怒りに満ちた声が響いた。

「ママ!」


振り返ると、紀康が拓海を連れて帰ってきたところだった。拓海は駆け寄り、梨紗の腕の中からサヤを無理やり引き離そうとする。

「ママはぼくのママだよ!抱っこしないで!」


サヤはびっくりして身をすくめてしまう。拓海は引っ張っても離れないと見るや、サヤの腕を思い切りつねってしまった。


「うわぁーん!」

サヤは痛さに泣き出してしまう。


サヤの祖母は慌てて孫を抱きかかえ、腕の赤い痕を見て眉をひそめる。拓海が梨紗の息子だと気づいたが、顔をしかめつつも何も言わなかった。


梨紗は拓海の手をつかみ、「パチン」と手のひらを叩いた。


「拓海!サヤに謝りなさい!」


「やだ!」

拓海は首を振り、悔しさで目に涙が浮かんでいる。今までママに叩かれたことなんてなかった。

今日は知らない子を抱っこしただけでなく、自分のせいで怒られたことが何よりつらかった。


「理由も聞かずに人を傷つけるなんて、そんな子に育てた覚えはありません。すぐに謝りなさい!」


梨紗の声は厳しかった。


「うわああん、パパ!」


拓海は近づいてきた紀康に駆け寄り、声をあげて泣き続ける。


梨紗は気持ちを抑え、サヤと祖母に頭を下げた。


「本当に申し訳ありません、私のしつけがなっていませんでした。どうぞお入りください、手当てさせてください」


サヤの祖母は少し迷いながらも、泣いているサヤを抱いたまま家の中に入った。


リビングで、梨紗はサヤをソファに座らせ、救急箱を探しにいく。ふと、自分が家を出るときに置いたままの荷物がそのまま残っているのに気づいた。


拓海は、母親が見知らぬ女の子にやさしく薬を塗る様子を見て、胸が締めつけられるような思いだった。


手当てを終えた梨紗は、サヤを祖母に返した。


「本当にすみません、幸い擦り傷だけです」


「いえいえ。それじゃ、失礼します」


サヤの祖母はそれ以上長居する気はないようだった。


梨紗は玄関まで見送ると、


「サヤちゃん、拓海と同じくらいの歳ですよね?今日は学校の始業式だったと思いますが、お休みですか?」


「ちょっと体調を崩していますので、もう少し休んだら学校に行かせます」


祖母がそう説明すると、梨紗はうなずいて二人の後ろ姿を見送った。


リビングに戻ると、拓海の泣き声がまた聞こえてきた。梨紗は険しい顔で拓海を引き寄せる。紀康の姿はもうなかった。


「拓海、ママは言ったよね?男の子は女の子を守るもの、いじめるなんてもってのほかよ?」


「でも……」

この半月、ママがいなくて自由だったけど、今はママが他の子を抱きしめたことで、捨てられたような気持ちになっていた。


「サヤが自分で転んだから、ぼくが起こしてあげたんだよ。ちゃんと聞いてくれないで怒るの?」


拓海は次第に泣き止み、うつむいた。


「ごめんなさい、ママ」


「今度サヤに会ったら、自分から謝るのよ。わかった?」


「うん……」


拓海が素直に謝るのを見て、梨紗は心がほぐれ、そっと頭をなでる。


「おばあちゃんがプレゼント持ってきてくれたから、取ってくるね」


梨紗は車から大きな箱を持ってきて拓海に渡す。拓海は一瞬だけうんざりした表情を見せたが、


「ありがとう、おばあちゃん。今度電話でお礼言うね」


若菜がいつも最新の限定おもちゃを持ってくるせいで、最近拓海は自分の実家からの贈り物に興味を示さなくなっていた。


梨紗はキッチンに向かった。


「ママ、どこ行くの?」と拓海が慌てて聞く。


「ママのご飯、食べたいって言ってたでしょ?」


拓海は目を輝かせて大きくうなずく。


家政婦の松本は、梨紗が帰ってきたのを見てとても嬉しそうだったが、梨紗はただ淡く微笑んだだけだったので、松本は少し戸惑った。


梨紗は息子の健康を考えて、いつも優しい味付けの家庭料理を作っていた。料理ができても拓海が出てこないので、部屋の前まで行く。



ノックしようとしたそのとき、中から拓海の不満げな声が聞こえてきた。


「ななちゃん、ママはいつも他の子の味方ばっかり。ぼくのことなんて全然わかってくれない。ななちゃんだけが、ぼくの気持ちをわかってくれるんだ」


若菜のやさしい声が返る。


「それぞれ立場があるからね。ママはママなりに、拓海のことを考えてるんだよ」


「違うよ!ほんとにぼくのこと考えてるなら、叩いたり怒ったりしないでしょ?この前だって、ななちゃんはちゃんとぼくの味方してくれたじゃん」


「拓海がつらい思いをしないようにしてるだけだよ。でも、ママの気持ちも少しだけわかってあげて。」


「うそだよ!ママはぼくのことなんて好きじゃない!もう知らない!」


拓海の声は苛立っていた。


「わかったわかった。とりあえず、ご飯食べておいで。ママ待ってるよ」

「ななちゃん、今度ピザ食べに連れてってくれる?ピザ食べたい!」

「もちろん、何でも好きなもの食べに行こう。さあ、行っといで」


「うん」と返事をしながら、拓海は小声でぶつぶつと文句をこぼした。

「ママなんか、帰ってこなきゃよかったのに」

「そんなこと言わないで。ママはママなんだから」と若菜の声はやさしかった。


「おばあちゃんがくれたLEGOもさ、パパが“もらったらお礼言いなさい”って言うから仕方なく受け取っただけ。ママがいなくなったら、ゴミ箱に捨ててやるんだ。どうせ去年のだし、ななちゃんがこの前くれたやつのほうが新しいし、全然わかってないよ、つまんない」


梨紗は、部屋の前でその声を聞き、足を止めたまま動けなくなっていた。


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