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第十二話 誰も気に留めない


部屋の中では、拓海がまだ若菜と話したがっているようだったが、梨紗を探しに行かなければならず、なかなか電話を切れずにいた。

梨紗は息子を困らせたくなくて、黙ってドアの前から離れた。


松本が彼女の姿を見て、不思議そうに尋ねた。

「坊ちゃんはまだ出ていないのですか?」


「急用ができたから、ご飯はキッチンに置いてあるわ。拓海が出てきたら運んであげて。」

梨紗はエプロンを外して松本に手渡した。


彼女が何のためらいもなく背を向けて去っていくのを、松本はしばらく呆然と見送った。


ちょうどそのとき、紀康が部屋着に着替えて階下に降りてきた。

松本は慌てて声をかけた。

「旦那様、奥様は用事で出かけたそうです。」


「……ああ。」

紀康は淡々と返事をし、食卓へ向かった。


松本は何か言いたげだったが、結局何も言わずにその場を離れた。


しばらくして拓海が部屋を出てきたが、梨紗の姿が見当たらず、きょろきょろと辺りを見回して尋ねた。

「ママは?」


「奥様は急用で出かけましたよ。」

松本はすでに食事をテーブルに並べていた。味噌汁に漬物、魚料理とサラダ。


偏食気味の息子のために、梨紗は毎回メニューや盛り付けに工夫を凝らしていた。この家に長く仕えてきた松本には、その努力がよく分かっていた。


「用事って?」

拓海はその答えが信じられない様子だった。これまで母親が家にいるときは必ず一緒に食卓につき、特に嫌いな野菜も厳しくも優しく見守りながら食べさせてくれた。それが今回も同じだと思っていたのだ。


拓海は紀康の方を見やった。

「本当にママ、出かけたの?」


紀康は特に表情を変えず、梨紗が作った食事を口に運びながら答えた。

「そうだ。」


拓海は数口食べてみたものの、どうにも食欲が湧かなかった。本当はお母さんの作るとんかつが食べたかったが、今夜の食卓にはそれらしいものはなかった。


「松本、他のが食べたい。」

拓海は不満げに言った。


松本は驚いて答えた。

「これ、坊ちゃんが奥様にお願いしたものじゃないの?」


「こんなの頼んでないよ!まずいよ、いらない!」

拓海は茶碗を押しのけた。


「駄目だ。」

紀康の声は低かったが、有無を言わせぬ強さがあった。


拓海は反論しようとしたが、父親の視線に気づき、渋々箸を取り直した。数日後には若菜と一緒にピザを食べる約束があることを思い出し、なんとか我慢して食べることにした。



梨紗が紀康に心惹かれたのは、幼い頃に命を救ってもらったことだけが理由ではない。神崎宗一郎への腎臓提供を承諾した後、紀康が自ら世話をしてくれた日々の中で、冷たく見える彼のもう一つの顔に触れたからだった。


紀康は若くして才能を発揮し、18歳までにダブルの博士号を取得。破綻寸前だった神崎財閥をわずか一年で立て直し、業界トップに押し上げた。その能力と決断力は誰もが認めていた。


梨紗もまた、決して凡庸な存在ではない。早稲田で日本文学を専攻し、イタリア語を副専攻。さらに独学でフランス語やラテン語なども習得した。学ぶ力はずば抜けていた。スタントで入った撮影現場では、プロデューサーに容姿と演技力を認められ、女優転向を勧められたこともある。


だが、彼女の本当の望みは創作だった。当時の彼女は、紀康に必要なのは家庭を支える穏やかな妻だと思い込み、自分の輝きを抑えてその役割を引き受けた。


けれど、紀康が求めていたのは、最初から彼女のような女性ではなかったのだ。


自宅に戻ると、小田監督からのボイスメッセージが届いた。


「美帆、ヒロインはもう決まった?間宮さんが早乙女さんを推薦してくれて、彼女も脚本を読んですごく気に入ったらしいよ。まだ決まってなければ、早乙女さんでどう?間宮さんと早乙女さん、この二人が揃えば、絶対にヒット間違いなしだし、君の業界での地位ももっと上がるよ!」


ドラマの成功で得をするのは、表に立つ役者だけではない。

梨紗の最初の脚本料はわずか30万円、2作目はヒットして100万円に跳ね上がり、3作目では基本報酬プラス歩合制となった。

4作目では、小田監督が自ら報酬の割合を上げてくれた。もし彼らの人気が加われば、さらに大きな収益が見込める。


「小田監督、早く撮影を始めたい気持ちは分かります。私もできるだけ早く適任を探します。」


「脚本は読ませてもらったよ。彼女は完全にイメージ通りじゃないかもしれないけど、幅広い役ができる女優だし、絶対うまくやるよ!」

小田監督は強く勧めてくる。


若菜は演技力はあるが、庶民役を演じるときに信念が感じられない。

梨紗は現場でそれをよく見ていた。彼女が賞を取れるのも、紀康の投資や人脈によるものが大きい。


「美帆、頑なにならなくていいよ。若菜がやりたい役なら、神崎社長が必ず取ってきてくれるじゃないか。もし断ったら、神崎社長が怒って本当に業界に居られなくなるかもしれないよ。」

小田監督の言葉は決して大げさではない。


だが、梨紗の信念はそれを許さなかった。


「もし神崎社長が本当に私をこの業界から追い出すなら、それでも構いません。」

彼女の態度は揺るがなかった。


「はあ……君も相変わらずだな。」

小田監督はため息をついて、それ以上は何も言わなかった。


―――


翌日、梨紗はまた若菜のスタントを務めることになった。今日は激しいアクションシーンが多い。


一昨日のビンタのシーンでできた頬の腫れも、まだ完全には引いていない。

本当に拓海が彼女を気にかけていたなら、きっと一言くらいは心配してくれただろう。だが、彼はそんな母を見ても何も言わず、自分のことばかりだった。


昔とはまるで別人のようだ。

幼い頃、梨紗が拓海を育てていた時は、ちょっと擦りむいただけでも心配そうに彼女に寄り添い、幼い顔を曇らせていた。

その頃は、たとえ紀康が冷淡でも、この子を必死に産んだ甲斐があったと思えた。


けれど、彼女が仕事で忙しくなり、厳しくしつけるようになってからは、若菜が何でも甘やかしてくれることもあり、拓海は次第に梨紗から離れ、時には傷つく言葉まで投げつけるようになった。


梨紗は自嘲気味に口元を歪めた。息子を厳しく育てるのは間違いではないと思っている。

男の子は甘やかすだけではいけない。子どもが大きくなり、自分の好みや選択を持つようになった今、彼の意思を尊重するしかない。


紀康に期待することなど、もはやなかった。

中絶すら無関心だった男が、彼女の顔の腫れなど気にかけるはずもない。



撮影現場に到着した梨紗は、到着したばかりの中年男性と鉢合わせた。


男性は彼女を見て一瞬驚いた後、わざとらしいほどの笑顔を浮かべて声をかけてきた。

「梨紗か?お父さん、久しぶりだな。」


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