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第十三話 彼女のことをご存じですか?


「お父さん」


その一言を聞いた瞬間、神崎梨紗はこれ以上なく皮肉に感じた。


彼が父親だなんて、そんな資格があるのだろうか。

梨紗は一瞥すらせず、そのまま通り過ぎようとした。


だが那須太郎が慌てて一歩前に出て、彼女の手首を掴んだ。顔には作り物の優しさが浮かんでいる。


「梨紗……お前が俺を恨んでいるのは分かっている。でも、大人の事情で子供がお互いを憎む必要はないだろう。俺はずっとお前の父親だし、お前のことは気にかけている。お前……最近は元気か?」


梨紗は無表情のまま手を振りほどき、鞄からアルコールシートを取り出して、掴まれた場所を丁寧に拭き取った。そのあと、迷いなくシートを近くのゴミ箱に捨てた。


その一連の動作は、まるで無言の平手打ちのように那須太郎のプライドを打ち砕いた。


屈辱を必死に堪えながらも、那須太郎はなおも声を和らげ、父親らしい態度を取り繕おうとする。

「お前が俺を責めるのは当然だ。でも、もしお前が俺の立場だったら――」


「あなたの立場?」

「浮気男の立場ってこと?那須太郎、自分がどんな馬鹿げたことを言ってるか分かってる?母がどうやって死んだか、もう忘れたの?」


那須太郎は両手で顔を覆い、いかにも苦しげな声を出す。

「俺は本当にお母さんを愛していたし、幸せにしたかった……でも、元妻との間に子供がいるんだ、見捨てるわけにはいかなかった。お母さんは……あまりにも気にしすぎたんだ。彼女がいなくなってから毎日、ずっと彼女のことばかり考えてる。昨夜も夢に――」


「黙って!」

「その偽善者みたいな態度、やめて!那須太郎、出かけた瞬間に車にでも轢かれればいいのに!」


普段はここまで取り乱すことのない彼女だったが、この母を死に追いやった男にだけは、どうしても憎しみを抑えられない。



那須太郎が何か言いかけたその時、甘ったるい声が割り込んだ。

「お父さん、どうしてここに?」

若菜が紀康と並んでやってきた。こういう光景は、現場では何度も繰り返されてきた。


那須太郎はすぐに表情を切り替え、優しそうな笑みを浮かべ、手にした保温容器を若菜に差し出す。

「お母さんが、お前が撮影で頑張っているって気にしててね。お弁当を作って持ってこいって言われたんだ。神崎くんも一緒か?たくさんあるから、一緒に食べなさい。」


若菜は嬉しそうに紀康を見つめる。

「お母さん、私たちが一緒にいるってわかってたんだね。たくさん作ってくれて……紀康、お母さんのお弁当、美味しいって言ってたでしょ?朝もあまり食べてないし、ちょうどいいよね。」


だが紀康の視線は、少し離れたところで背を向けて歩き去る梨紗に向けられていた。

彼女は一瞬だけ足を止めた気がする。


紀康は那須太郎に向き直って問いかけた。

「伯父さん、あの人のことをご存じですか?」


「え?いや、知らないよ。」

那須太郎は目をそらしながら、素早く答えた。

若菜の不満そうな視線を恐れているのが見て取れる。


紀康はわずかに眉をひそめる。先ほど梨紗が見せた一瞬の緊張は、気のせいだったのか――。


那須太郎は慌てて話を切り上げようとする。

「さあ、早く中に入りなさい。冷めると美味しくないからな。食べ終わったら、お母さんに報告しなきゃ。」


「分かったわ。」


梨紗は遠くまで行ってはいなかった。

「知らない」という那須太郎の冷たい一言が、心の奥に突き刺さる。

なぜ彼が自分のことを認めないのか、梨紗には痛いほど分かっていた。

那須太郎は以前、紀康の前で美談を作り上げていた。長年病床に伏していた元妻を最後まで看病し、彼女はその恩義を感じて財産を残してくれた――そんな美しく感動的な嘘を。


もし先ほど、本当に「お父さん」と呼んで真実を暴いていたら、どんな顔をしただろう。

でも、梨紗はもう二度とあの男を父親とは呼ぶつもりはなかった。

彼にはその資格がない。


この日の撮影には背中を見せるシーンがあった。梨紗は絶対に代役なんて引き受けないと決め、監督のもとへ向かった。


監督はイライラしていたが、事情を話すと不機嫌そうに手を振った。

「これが仕事だろう?前にギャラも上げただろう?文句を言わずに早く準備してくれ。皆に迷惑がかかる。」


ボディダブル?

絶対に無理だ。

たとえ背中だけでも、大勢の前で服を脱ぐなんて絶対に受け入れられない。

梨紗は紀康に直接話すことを決めた。


彼の控室に向かおうとすると、近くにいたスタッフが慌てて止めに入った。


「ちょっとは空気を読んでよ。神崎社長の将来の義父が来てるんだから、三人で食事中だよ。監督も、絶対に邪魔するなって言ってたでしょ!」

「そうよ、みんな仲良くしてるのに、入っていったら迷惑よ。自分で恥かくことになるだけだって!」


梨紗は耳を貸さず、そのままドアを開けた。

穏やかだった食事の場に緊張が走る。

若菜は驚きの表情を浮かべ、那須太郎は一気に顔が強張り、梨紗を警戒するような目つきで見つめている――彼女が本当のことを暴くのを恐れているのだ。


梨紗は冷笑を浮かべ、紀康の前まで真っすぐ進む。怒りを抑え、できるだけ落ち着いた声で言った。


「少し時間をいただけますか。お話ししたいことがあります。」


紀康は箸を置き、不機嫌そうに答えた。

「何の用だ?ここで話せ。」


つまり、若菜や那須太郎の前でも構わない、と。


「今日のボディダブルは、私にはできません。ほかの人を探してください。」

梨紗の声ははっきりとしていた。


若菜は聞こえないふりをして、那須太郎は横で焦りながら娘に目配せした。

紀康は無言のまま梨紗を見つめ、その瞳は何を考えているのか読み取れない。


梨紗はその視線を受け止め、今までにない強い口調で言った。

「私がなぜできないか、あなたは分かっているはずです。もし、それでもやれと言うのなら、仕方ありません。」


もはや、彼のためだけに自分を犠牲にするような梨紗ではなかった。

ボディダブルだけは、どんな理由があっても譲れない――それが彼女の最後の一線だった。

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