「お父さん」
その一言を聞いた瞬間、神崎梨紗はこれ以上なく皮肉に感じた。
彼が父親だなんて、そんな資格があるのだろうか。
梨紗は一瞥すらせず、そのまま通り過ぎようとした。
だが那須太郎が慌てて一歩前に出て、彼女の手首を掴んだ。顔には作り物の優しさが浮かんでいる。
「梨紗……お前が俺を恨んでいるのは分かっている。でも、大人の事情で子供がお互いを憎む必要はないだろう。俺はずっとお前の父親だし、お前のことは気にかけている。お前……最近は元気か?」
梨紗は無表情のまま手を振りほどき、鞄からアルコールシートを取り出して、掴まれた場所を丁寧に拭き取った。そのあと、迷いなくシートを近くのゴミ箱に捨てた。
その一連の動作は、まるで無言の平手打ちのように那須太郎のプライドを打ち砕いた。
屈辱を必死に堪えながらも、那須太郎はなおも声を和らげ、父親らしい態度を取り繕おうとする。
「お前が俺を責めるのは当然だ。でも、もしお前が俺の立場だったら――」
「あなたの立場?」
「浮気男の立場ってこと?那須太郎、自分がどんな馬鹿げたことを言ってるか分かってる?母がどうやって死んだか、もう忘れたの?」
那須太郎は両手で顔を覆い、いかにも苦しげな声を出す。
「俺は本当にお母さんを愛していたし、幸せにしたかった……でも、元妻との間に子供がいるんだ、見捨てるわけにはいかなかった。お母さんは……あまりにも気にしすぎたんだ。彼女がいなくなってから毎日、ずっと彼女のことばかり考えてる。昨夜も夢に――」
「黙って!」
「その偽善者みたいな態度、やめて!那須太郎、出かけた瞬間に車にでも轢かれればいいのに!」
普段はここまで取り乱すことのない彼女だったが、この母を死に追いやった男にだけは、どうしても憎しみを抑えられない。
那須太郎が何か言いかけたその時、甘ったるい声が割り込んだ。
「お父さん、どうしてここに?」
若菜が紀康と並んでやってきた。こういう光景は、現場では何度も繰り返されてきた。
那須太郎はすぐに表情を切り替え、優しそうな笑みを浮かべ、手にした保温容器を若菜に差し出す。
「お母さんが、お前が撮影で頑張っているって気にしててね。お弁当を作って持ってこいって言われたんだ。神崎くんも一緒か?たくさんあるから、一緒に食べなさい。」
若菜は嬉しそうに紀康を見つめる。
「お母さん、私たちが一緒にいるってわかってたんだね。たくさん作ってくれて……紀康、お母さんのお弁当、美味しいって言ってたでしょ?朝もあまり食べてないし、ちょうどいいよね。」
だが紀康の視線は、少し離れたところで背を向けて歩き去る梨紗に向けられていた。
彼女は一瞬だけ足を止めた気がする。
紀康は那須太郎に向き直って問いかけた。
「伯父さん、あの人のことをご存じですか?」
「え?いや、知らないよ。」
那須太郎は目をそらしながら、素早く答えた。
若菜の不満そうな視線を恐れているのが見て取れる。
紀康はわずかに眉をひそめる。先ほど梨紗が見せた一瞬の緊張は、気のせいだったのか――。
那須太郎は慌てて話を切り上げようとする。
「さあ、早く中に入りなさい。冷めると美味しくないからな。食べ終わったら、お母さんに報告しなきゃ。」
「分かったわ。」
梨紗は遠くまで行ってはいなかった。
「知らない」という那須太郎の冷たい一言が、心の奥に突き刺さる。
なぜ彼が自分のことを認めないのか、梨紗には痛いほど分かっていた。
那須太郎は以前、紀康の前で美談を作り上げていた。長年病床に伏していた元妻を最後まで看病し、彼女はその恩義を感じて財産を残してくれた――そんな美しく感動的な嘘を。
もし先ほど、本当に「お父さん」と呼んで真実を暴いていたら、どんな顔をしただろう。
でも、梨紗はもう二度とあの男を父親とは呼ぶつもりはなかった。
彼にはその資格がない。
この日の撮影には背中を見せるシーンがあった。梨紗は絶対に代役なんて引き受けないと決め、監督のもとへ向かった。
監督はイライラしていたが、事情を話すと不機嫌そうに手を振った。
「これが仕事だろう?前にギャラも上げただろう?文句を言わずに早く準備してくれ。皆に迷惑がかかる。」
ボディダブル?
絶対に無理だ。
たとえ背中だけでも、大勢の前で服を脱ぐなんて絶対に受け入れられない。
梨紗は紀康に直接話すことを決めた。
彼の控室に向かおうとすると、近くにいたスタッフが慌てて止めに入った。
「ちょっとは空気を読んでよ。神崎社長の将来の義父が来てるんだから、三人で食事中だよ。監督も、絶対に邪魔するなって言ってたでしょ!」
「そうよ、みんな仲良くしてるのに、入っていったら迷惑よ。自分で恥かくことになるだけだって!」
梨紗は耳を貸さず、そのままドアを開けた。
穏やかだった食事の場に緊張が走る。
若菜は驚きの表情を浮かべ、那須太郎は一気に顔が強張り、梨紗を警戒するような目つきで見つめている――彼女が本当のことを暴くのを恐れているのだ。
梨紗は冷笑を浮かべ、紀康の前まで真っすぐ進む。怒りを抑え、できるだけ落ち着いた声で言った。
「少し時間をいただけますか。お話ししたいことがあります。」
紀康は箸を置き、不機嫌そうに答えた。
「何の用だ?ここで話せ。」
つまり、若菜や那須太郎の前でも構わない、と。
「今日のボディダブルは、私にはできません。ほかの人を探してください。」
梨紗の声ははっきりとしていた。
若菜は聞こえないふりをして、那須太郎は横で焦りながら娘に目配せした。
紀康は無言のまま梨紗を見つめ、その瞳は何を考えているのか読み取れない。
梨紗はその視線を受け止め、今までにない強い口調で言った。
「私がなぜできないか、あなたは分かっているはずです。もし、それでもやれと言うのなら、仕方ありません。」
もはや、彼のためだけに自分を犠牲にするような梨紗ではなかった。
ボディダブルだけは、どんな理由があっても譲れない――それが彼女の最後の一線だった。