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第十四話 避けても避けきれず


「いいよ。」


紀康のあっさりとした返事に、那須太郎と若菜の視線が梨紗へと集まった。


若菜はすぐに那須太郎に安心するような目配せを送った。

確かに、誰も梨紗が紀康の妻だとは知らないとはいえ、「神崎家の奥様」として代役でヌードシーンを演じるのはやはり不適切だ。


太郎は内心ほっと胸を撫で下ろした。

最後に自分の大事な娘である若菜が直接演じる羽目にならなければそれでいい。


梨紗はその場に立ち尽くした。

もう一悶着あると覚悟していたのに、紀康はほんの数言であっさりと了承してしまったのだ。


「監督に代役の変更を伝えてくる。」

紀康はそう言って立ち上がり、そのまま歩き出した。


梨紗は一瞬呆然としつつも、慌てて後を追い、声を落として問いかけた。

「何か条件がありますか」


紀康の歩幅は大きく、全く彼女に合わせる気配もない。

梨紗は小走りでついていくしかなかった。その様子に、撮影現場の人々もちらちらと視線を向けていた。


監督のもとに着くと、紀康は耳元で何かをささやいた。監督の視線が梨紗に流れる。


やがて監督はうなずき、若菜と体型が似ている何人かのスタント女優を手招きした。

「ちょっと来てくれる?」


彼女たちは事情も分からぬまま、指示通り近づいてきた。


「神崎社長の指示で、彼女が体調不良のため、午前中の代役シーンができません。誰か代わりにお願いできる?報酬は上乗せします。」

紀康の視線が彼女たちを見渡す。


午前中のシーンは背中を露出するカットが含まれていた。彼女たちはスタントではあるものの、ヌード専門ではない。

いくら報酬が上がるとはいえ、ためらいがちで誰も手を挙げようとしない。


「無理しなくていいですよ。」

紀康は淡々とした口調で言った。

「できなければ、専門の人を呼びますから。」


すると、一人のスタント女優が前に出てきた。

「私がやります。二十万円で。」


こうして問題は片付いた。

紀康はそのまま踵を返し、梨紗のことなどまるで若菜の用事の一つでもあるかのように、もう一度も振り返らなかった。


梨紗には分かっていた。

これはすべて、神崎家のことを守るためだ。


代役をしなくて済んだとはいえ、梨紗は現場を離れられず、いつでも呼ばれるよう待機しなければならなかった。


気付けば、太郎はいつのまにか姿を消していた。


紀康も、いつしか梨紗の近くに立ち、他の人には聞こえないような低い声で言った。

「お父さんが、今夜本邸に来いと言ってる。」

「うん。」

梨紗はうなずいた。義父の宗一郎からその話は聞いていたが、特に催促されなかったので自分からも触れずにいた。宗一郎が会いたいと言うなら、断る理由はない。


離婚の話がいまだに進展していないことを思い出し、梨紗は口を開きかけたが、紀康はもう背を向けて歩き出していた。

ちょうどその時、携帯が鳴ったので、梨紗は少し離れて電話を取った。


撮影が終わる頃、梨紗は若菜が紀康の車に乗り込むのを見て、すぐに察した――たとえ今夜本邸に行く予定があっても、紀康の車に自分の居場所はない。

宗一郎が強く言わなければ、彼の車に乗せられることは決してなかった。たまに乗せられたとしても、すぐにその車は使われなくなる。まるで自分が厄介者でもあるかのように。


梨紗は追加料金を払ってタクシーを呼び、本邸へと向かった。


途中、一台の車が道を塞いだ。窓が下がり、紀康の顔が現れる。

「降りて、こっちに乗って。」

彼の命令はいつも通り簡潔だった。


梨紗には分かっていた――紀康は宗一郎に何か気付かれるのを避けたいのだ。まだ夫婦としての体面を保つため、協力するしかなかった。


梨紗はタクシーを降りて、紀康の車の後部座席に乗り込んだ。

心の中で、明日また車を替えるのだろうと苦笑した。



車内では、拓海が夢中でタブレットをいじっていた。

以前なら梨紗は隣に寄って、「何してるの?」と笑いかけ、目が悪くなるからもうやめなさいと言っただろう。

しかし今は、何も見なかったふりをして、静かに窓の外を眺めていた。


紀康は梨紗を一瞥し、拓海に言った。

「どうしてママに挨拶しない?」


「今大事なとこなんだよ!」

拓海はゲームに集中していて顔も上げない。


紀康は無言でタブレットを取り上げた。

「パパ、返してよ!ななちゃんとチーム組んでるんだよ!死んじゃうよ!」

拓海は必死で叫んだ。


「ママに挨拶しなさい。」

紀康の声は有無を言わせぬものだった。


拓海は面倒くさそうに梨紗をちらっと見て、「挨拶なんかしなくても逃げないでしょ」とつぶやいた。

紀康の表情が一瞬で険しくなった。


拓海は父親の機嫌が悪くなったのを察し、渋々顔を向けて「こんにちは」と言った。

そしてすぐにタブレットを奪い返そうとした。

「パパ、もういいでしょ?早く!」

「その態度はないだろう。」


拓海はなぜ今日父がここまで言うのか分からなかったが、これ以上逆らえば本当に返してもらえなくなると思い直し、無理やり声のトーンを変えて「こんにちは」ともう一度言った。


梨紗は相変わらず無言のままだった。


車を降りた後、拓海はようやくタブレットを返してもらい、ゲーム画面を見て地団駄を踏んだ。

「あー!本当に死んじゃったじゃん!パパのせいだよ!」


ちょうどその時、宗一郎が出てきて、険しい顔で言った。

「お前、そんな子供が“死んだ”なんて縁起でもないこと言うな!」


拓海は顔を上げて「おじいちゃん」とだけ言い、後は口をつぐんだ――父に「おじいちゃんの前では若菜のことは絶対口にするな」ときつく言われているからだ。

父の言うことは守らなければならない。


宗一郎は深く追及せず、梨紗に目を向けて微笑んだ。

「梨紗、よく来てくれた。」


「お父さん、お母さん。」

梨紗は宗一郎と、後から現れた雅子に挨拶した。


「うん。」

雅子は冷たく返事をした。


ゴロゴロッ――空が突然雷鳴を響かせ、稲妻が雲を切り裂いた。


皆が一斉に窓の外に目を向ける。


宗一郎はかすかに口元を緩め、すぐに表情を戻して言った。

「天気が急に変わったな。さっきまで晴れてたのに、もうすぐ雨が降りそうだ。こういう日は家から出ない方がいい。今夜はここに泊まっていきなさい。」


確かに来た時は快晴だったが、突然の大雨になりそうだ。

幸い今日は梨紗の執筆の仕事も終わっている。



その頃、神崎家の別邸。


梨紗の部屋はしばらく使われていないが、定期的に窓を開けて空気を入れ替えている。

雨が降る直前、風が強まり、誰も気づかないうちに、梨紗がドレッサーの上に置いていた離婚届が風に舞い、ベッドサイドの隙間へと落ちていった。


まるで、何もなかったかのように――。


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