雨が降り出す直前、妹の玲奈が慌ただしく本家に駆け込んできた。
「なんなのこの天気!さっきまで晴れてたのに!」
玲奈は服に付いた水滴を払いながら顔を上げ、紀康に声をかける。
「お兄ちゃん。」
紀康は軽く頷いただけで、それ以上言葉を交わさなかった。
玲奈は雅子を探そうとしたが、宗一郎に冷たく声をかけられる。
「梨紗が見えないのか?」
「……梨紗」
玲奈は渋々といった様子で呼んだ。
玲奈は若菜と仲が良く、もし梨紗が現れなければ、紀康と若菜がうまくいっていたはずだと思っていた。そのため、梨紗には常に冷たい態度を取っている。
かつて梨紗は、心を込めて接すればいつか受け入れられると信じていたが、それがどれほど甘い考えだったか、今は身に染みている。
若菜が再び紀康の近くで存在感を増すようになってからは、宗一郎を除いて家族全員から疎ましく思われ、まるで「なぜ未だに身を引かないのか」と無言で責められているようだった。
梨紗もよく分かっている。紀康が離婚しないのは、若菜が今キャリアの大事な時期で、表向きの妻が必要なだけだと。
離婚は決まっているのだから、これ以上下手に出るつもりもない。
梨紗は淡々と「ええ」とだけ返した。
玲奈は、梨紗の様子がいつもと違うことに敏感に気づいた。いつもなら、帰宅するとすぐに着替えを用意してくれていたはずなのに、この沈黙はまるで別人のようだった。
「おばちゃん!」
久しぶりに梨紗に会ったココが、嬉しそうに駆け寄ってきた。
梨紗はこの姪をずっと可愛がっており、笑顔で抱き上げる。
玲奈はすぐさまココを奪い返し、きつい口調で言う。
「お母さんがいるのに、見えないの?」
普段から母親らしいことをろくにせず、子どもを他人に預けることが多いくせに、こういう時だけ嫉妬心を露わにする。
ココは怯えて黙り込んだ。
宗一郎が厳しい声で玲奈をたしなめた。
「お前、ココの面倒を何日見た?ココが梨紗に懐いて何が悪い。」
父に叱られ、玲奈は黙り込む。
宗一郎は家では厳格だが、梨紗にはいつも優しい。「さあ、食事にしよう。」と声をかける。
梨紗は頷いた。ココは玲奈に手を引かれながらも、何度も梨紗の方を振り返っていた。
それを見た拓海は、思わず梨紗の前に立ち、小声で「ココなんか嫌いだ。僕のお母さんを取ろうとするんだから」と呟く。
どれほど梨紗を好きでなくても、「自分のもの」として譲りたくない気持ちが強い。
全員が席につくと、玲奈はわざと紀康の隣に座った。宗一郎はすぐに眉をひそめて言う。
「そっちは梨紗の席だ。やめなさい。」
息子夫婦の仲を取り持ちたい親心だが、なかなか思い通りにはいかない。
玲奈が立ちかけると、梨紗が「私は拓海の隣でいいわ。食事の世話もしやすいから」と言ったので、玲奈はそのまま動かなかった。
梨紗が拓海の横に座ると、拓海がすぐに「パパの隣に座ってよ」と懇願する。
本家に来るたび、食卓には母に制限されている「ごちそう」が並ぶ。今日は思い切り食べたいのだろう。
梨紗はそれを察し、素直に席を移った。
その様子に家族全員が驚いた。これまでなら、息子のこととなれば一歩も譲らなかった梨紗が、今日はあっさり拓海の一言に従い、しかも怒った様子もない。まるで全てのことがどうでもいいと言わんばかりだ。
その変化に玲奈は思わず唖然とした。これまでどれだけ梨紗が兄に尽くしてきたか知っているからだ。
「親の前で被害者ぶってるの?ますます気に入らない」と内心で呟き、さらに梨紗が嫌になった。
梨紗が席に着くと、玲奈はそっと耳元で、刺々しい声でささやいた。
「梨紗、告げ口なんてしても無駄よ。お兄ちゃんはますますあなたのこと嫌いになるだけ。」
梨紗は一瞥しただけで何も答えなかった。その冷ややかな目つきに、玲奈はどこか違和感を覚えた。
宗一郎は静かに皆に食事を促した。
梨紗の制止がなくなり、拓海は好きなものを山のように取り始めた。宗一郎は思わず言った。
「拓海、じいちゃんは食べるなとか言わない。ただ、前に幼稚園で体調を崩してばかりだったろう?その後、お母さんが先生に診てもらって、体質を改善してから元気になったんだぞ。この2年、体調が良くなったのは、お母さんがちゃんと見てくれたおかげだ。ほどほどにしなさい。」
拓海は神崎家の大切な跡取り。家族はみな、できるだけのことをしてきたが、幼稚園に入ってからは病気がちで、毎月のように病院通いだった。
梨紗が根気よく専門の先生を探し、体質改善に努めたおかげで、今では随分元気になった。
雅子はココに取り分けながら、口を挟んだ。
「子どもが食べたいなら食べさせてあげればいいのよ。」
宗一郎は妻に向かって言う。
「ココも結局、梨紗のやり方で体が丈夫になっただろう?拓海は体が弱いんだから、今は控えめでいい。これからいくらでも食べられるようになるさ。」
雅子が何か言い返そうとしたとき、玄関から物音が聞こえた。
皆がそちらに目を向ける――
清和雅彦が、玄関に立っていた。