拓海が幼稚園に通っていた頃、父の紀康は一度も迎えに来たことがなかった。毎回、送り迎えをしてくれたのは母の梨紗だった。
ある日の下校時、友達が興味津々に聞いてきた。
「拓海、あの人、お母さん?」彼が答える前に、別の子が口を挟んだ。
「君のお母さん、なんか普通の服だね?家、あんまりお金ないの?」
拓海は「家はお金持ちだ!」と言い返したかったが、言葉が出てこず、悔しくてたまらなかった。
その後、若菜が迎えに来てくれたことがあった。
すると周りの子たちは一斉に、「わあ、神崎くん、あれお母さん?すっごくキレイ!」と羨ましそうに騒いだ。
あの時、拓海は誇らしくて仕方なかった。それからは、母の目の届かないところでは、梨紗のことを「使用人」だとごまかすようになった。
今、担任の先生に連れられてクラスの列に並ぶ時、先生が優しく声をかけてきた。「さっきの方が、お母さんよね?」
拓海の心がぎゅっと縮こまる。幼稚園でのあの恥ずかしさがまた繰り返されるのでは、と不安になる。曖昧に返そうとしたその時、先生が続けた。
「お母さん、素敵な方ね。ここだけの話だけど、お父さんには内緒よ――前にお父さんと一緒に来たあの女性より、ずっとキレイで品があると思うわ。あまりおしゃれはしないけど、きっと全部あなたのために時間を使ってるのね。本当に幸せな子ね、あなたは。」
先生は、わざとそう言った。これから拓海が自分のクラスにいると分かっているから、子どもの気持ちを察して、母こそが一番美しいということを伝えたかった。それが先生の本音でもあった。
拓海は、ぽかんとした。
ママって……本当にななちゃんよりキレイなの?初めてそんな疑問が頭をよぎった。
*
梨紗が出かけたのを見計らい、玲奈は自分の部屋に駆け込んで、紀康に電話をかけた。
電話に出たのは若菜だった。玲奈の声は一気に甘くなる。
「早乙女さん!最近忙しそうで、全然会えてないですよ!」
「今度、撮影現場に遊びに来ませんか?」
若菜の声はとても優しい。
「ぜひ!友だちみんな、早乙女さんのサイン欲しがってるんです!」
「マネージャーに用意させるから、来た時に私が直接書きます。」
若菜の気遣いに、玲奈は大喜び。普通ならサインはアシスタントが書くことも多いのに、わざわざ自分のために準備してくれるなんて。
「早乙女さん、本当にありがとうございます!みんなの分まで、お礼言っときます!」
「そんなに気を遣わないでください。何かあったら、なんでも言ってちょうだい。」
玲奈は、若菜のことを家族同然に思っていた。
「そうそう、兄さんに代わりますね。」
「ありがとうございます。」
電話はすぐに紀康へ。
「何か用?」
「兄さん!」玲奈は少し困ったような口調で、
「昨日の夜、帰ってこなかったし、今朝もいなかったから、お父さんすごく怒ってたよ!」
「知ってる、電話来たから。」
「お父さん、兄さんと早乙女さんが一緒にいるって、まさか知らないよね?」
「誰も言ってない。」
「良かった。彼女だって、絶対言えないでしょ。だって、向こうの家の会社、まだ兄さんの管理下だもん。下手なことできるわけないよ!」
「それだけ?」
「あ、違う違う、本題!」玲奈は急いで本題に。
「食事の時、お父さんがさ、梨紗を兄さんの秘書にしようって言い出したんだよ!頭どうかしてるよ。梨紗は確かに学歴はあるけど、卒業してすぐ兄さんと結婚して、もう八年も働いてないんだよ?社会から完全に離れてるの!絶対、お父さんは二人をくっつけたくて、ついでに兄さんの監視役までさせようとしてる!」
紀康は無言のまま、話を聞いている。
玲奈は続ける。
「でもね、梨紗はちゃんと断った。自分のやりたいことがあるから会社には行かないって。まあ、空気読んだんだろうね。じゃなきゃ……」
紀康は、ほんのわずかに眉をひそめた。梨紗が断った?昔は会社に近づこうと、食事や薬を持ってきたり、いろいろと気を使ってくれていた。それなのに、こんなチャンスを断るなんて――。
「それとね、」玲奈は声をひそめ、わくわくした様子で続ける。
「今朝、梨紗が叔父さんと一緒に出かけてたの!兄さんがあてにならないから、今度は叔父さんに乗り換えるつもりじゃない?」
玲奈にとって、梨紗は兄嫁にふさわしくない存在だった。宗一郎の前では猫をかぶるが、内心では軽蔑していた。
「他に用は?」紀康は冷たく言う。
玲奈は彼の無関心さを察し、ますます梨紗が無駄な努力をしていると確信した。
「ううん、それだけ。」
「じゃあ、切るよ。」
玲奈は上機嫌で携帯を置き、鼻歌まじり。梨紗が家を追い出されるのも、もうすぐだと思っていた。
*
梨紗は小学校の門前で雅彦に別れを告げ、ひとりで撮影所の方へ向かった。雅彦が「ついでだから」と送ってくれたのだ。
「ありがとうございました、叔父さん。では、また。」梨紗は丁寧に礼を言い、雅彦の車が走り去るのを見送った。
その一部始終を、紀康の友人・中村和生が偶然目撃した。驚いて目を見開き、すぐにスマートフォンで写真を撮って紀康に送りつけ、電話をかけた。
「もしもし、紀康!今の俺、見間違えた?彼女、叔父さんの雅彦さんと一緒にいたぞ?」
電話越しの紀康の声は、何の動揺もない。
「ああ、昨夜は本家に戻ってて、叔父さんも一緒だった。俺は先に出たから、彼が送ってくれたんだろう。」
「そうか……」中村は少し茶化した口ぶりで言う。
「てっきり、お前とうまくいかないから、今度は叔父さんを頼るのかと思ったよ。まあ、叔父さんもあの人には興味ないだろうけどな。」