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第22話 宴(1)


商店街を通りかかったとき、ふと目にした路面のショーウィンドウに飾られたドレスが、梨紗の視線を一瞬で奪った。彼女はすぐにタクシーを止めて、店の扉を押して中へ入る。


「パーティー用のドレスをお探しですか?」

店員が明るく声をかけてきた。


梨紗は軽くうなずいた。結婚して八年、宗一郎は何度も紀康に「梨紗をパーティーに連れていってやってほしい」と頼んできた。たとえアシスタントという名目でもいいから、と。

それを断って父を悲しませたくなかったのか、紀康はいつも「そのうち」と答えながら、一度も実現させなかった。いつの間にか、梨紗もその期待をすっかり手放していた。


ふと、独特なデザインのドレスに目が留まる。何も言わないうちに、店員はすぐにそれを手に取って差し出した。

「とても上品でお似合いになりそうです。ぜひご試着ください。」


梨紗の心はときめき、ドレスを受け取って試着室へ入る。


鏡に映る自分の姿に、思わず戸惑った。澄んだ瞳にきめ細やかな肌、化粧もしていないのに驚くほど美しい。この数年、紀康と拓海のために、こんな自分をずっと閉じ込めていたのだと思い知らされる。じっと鏡の中の自分を見つめ、そっと一回転してみると、スカートの裾がやわらかく広がった。


そのとき、彼女は気づかなかったが、ショーウィンドウの外では若菜が冷ややかに立ち止まり、様子を見ていた。


若菜の目には、梨紗がドレスに未練を残している姿も、高価な衣装に憧れるだけの哀れな女にしか映らない。紀康が決して彼女をどこにも連れて行かないのは有名な話で、梨紗は結局、試着室で夢を見るしかないのだ。


「これ……おいくらですか?」

梨紗はおそるおそる聞いた。


「当店の一番の目玉商品で、九百万円になります。」


九百万円!梨紗の心臓が跳ね上がり、あわててドレスを脱いで店員に返した。


店員はにこやかにフォローする。

「デザイナーの一点物ですから、イベント後に転売すれば価値が上がることも多いんですよ。」


その言葉に少し心が動いたが、脚本で貯めた貯金はせいぜい九十万円ちょっと。


「ありがとうございます。ほかのも見せてください」


「残念ながら、レンタルは扱っていないんです」

店員が申し訳なさそうに言う。


すると梨紗の目が輝いた。


「他のものでレンタルできるものはありますか?」


「もちろんです。どうぞ、こちらへ。」


結局、彼女は十万円で上品なアイボリーのロングドレスを借りることにした。


サロンを出た梨紗は、まっすぐショッピングモールへ向かった。自分を変えなければと強く思った。

神崎家では、雅子に「派手すぎる」と何度も服装を批判されたが、それもすべて拓海の好みに合わせての妥協だった。これからは、自分のためだけに服を選ぶ。


彼女はシンプルで上品な通勤服をいくつか選び、美容室にも立ち寄った。腰まであった長い髪を肩までばっさりと切り、毛先を軽く巻いてもらう。新しい髪型の爽やかさが、心の澱まで洗い流してくれるようだった。


夕食は、自分へのご褒美にと楽しみにしていた。だが、店の入口に差しかかったところで、店員たちの会話が耳に入る。


「早乙女さんと神崎社長の子、もうあんなに大きいの?」


「ただの恋人同士かと思ってたのに。三人家族、幸せそうよね。神崎社長、写真はNGなんだって。早乙女さんの仕事に配慮してるんでしょうね」


「うらやましいなあ、うちの旦那とは大違い……」


明るいガラス越しに、梨紗は拓海が不器用にエビの殻をむいて、若菜の皿にそっとエビを乗せるのをはっきり見た。彼の幼い顔には期待が満ちている。


自分の息子が、まるで大人のように別の女性に気を遣っている。その姿に梨紗は、そっと足を引いた。今ここに自分が現れても、「三人家族」という幸せな光景を壊すだけ。紀康も、若菜と息子から一度も目を離さず、外の自分には気づくはずもない。


夜が更け、梨紗はリムジンを呼び、パーティー会場へと向かった。入口では小田監督が待っていた。


「小田監督」と声をかけると、彼は振り向き、梨紗をじっと見つめる。

「君は……?」


「暁美帆です」梨紗は微笑む。


「えっ……暁美帆!? 本当に君が?」

小田監督は驚きのあまり声が大きくなり、周囲のゲストがちらりとこちらを見た。


小田監督、もう少し小声で」


「これが大きい声? いやぁ、それにしても、こんな美人だとは!君が女優をやっていたら、絶対に主演にしたのに。」


梨紗は丁寧に、しかしきっぱりと首を振る。

「私はやっぱり、ものづくりが好きなので。」


「そうか、分かった。気が変わったらいつでも声をかけてよ!」

小田監督は上機嫌で、「さあ、先輩たちに紹介しよう」と梨紗を奥へ案内する。


小西監督が梨紗を見て、その上品な雰囲気に思わず目を奪われる。

「どこからこんな逸材を見つけてきた?新人を売り出す気か?」


小田監督はわざとったらしく笑いながら、「小西監督、記憶力が鈍ってきたな。彼女と仕事したことあるはずだよ、思い出せない?」


小西監督はきょとんとしている。これほどの美貌と存在感のある女優に心当たりはない。周りの人たちも興味津々で見守る。


「よし、紹介しよう。この方が脚本家の——暁美帆さんだ!」


「暁美帆さん!?」


小西監督は目を丸くして、梨紗の手をぎゅっと握る。

「本当に!?君の作品を撮って、国際的にも注目されました。ずっと直接お礼を言いたかったですよ!」


感激のあまり、手を離すのを忘れている。


「こちらこそありがとうございます。」


小田監督は笑いながら、小西監督の手をそっと外した。

「新しい脚本はもう僕がもらっている。主演も決まったし、次は小西監督の番まで待ってもらわないとね!」


「分かった、次は必ず! 暁美帆さん、連絡先を教えてくれませんか。」


ほかの有名な脚本家たちも次々と声をかけ、梨紗はまるで憧れのスターに会ったかのように緊張しつつも、名刺を交換した。


小田監督がタイミングよく釘を刺す。「暁美帆さんは僕の顔を立てて来てくれたんだ。皆さん、ここだけの話にしてくださいね?」


「もちろん、分かってる!」


そのとき、会場の入口がざわめき始め、低いどよめきが広がる。


「早乙女さんが来た!」


フラッシュが一斉にたかれ、若菜は紀康の腕を取り、華やかなライトの中にゆっくりと現れた。


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