梨紗は通話ボタンを押した。
電話の向こうから幼い声が聞こえてきた。
「ママ、何回も電話したのに出てくれなかったよ。」
梨紗は着信履歴に気づいていたが、かけ直すつもりはなかった。
こんな遅い時間、心も体もすっかり疲れ切っていた。
以前は旦那と息子だけが世界の中心。
どんな些細なことも二人を最優先に、自分のことはいつも後回しにしてきた。
でも、もうあの頃の自分には戻りたくないと、はっきり自覚したのだ。
梨紗の声はどこか冷たく、距離を感じさせた。
「今夜は急な用事があって出られなかったの。どうかしたの?」
「うん……パパがまだ帰ってこなくて。ママに帰ってきてほしかったんだ。」
「今日は疲れてるから、家には戻らないわ。」
「え?ママ、帰ってこないの?どこにいるの?」
梨紗は無表情だった。
もう一ヶ月以上も家を出て一人で暮らしているのに、彼と息子は何も聞いてこなかった。
今さらになってやっと気になったのだろうか。
二人にとって、自分は本当にどうでもいい存在なのかもしれない。
「他に用がないなら、電話切るわね。」
拓海は少し落ち込んだ様子だったが、母親の疲れた声に気づいたのか、小さく「うん」とだけ答えた。
梨紗は先に電話を切った。
以前のように、息子が切るのを待つことはもうなかった。
スマートフォンをテーブルに置いて立ち上がろうとした時、画面が再び光った。
今度は仕事用に使っているもう一つの番号からの着信だった。
この番号からかかってくることは滅多になかったが、梨紗は直感的に早乙女若菜に関係があると感じた。
少し迷ったものの、結局電話を取った。
「もしもし。」
できるだけ平静を装って声を出す。
電話の相手も少し間を置いてから、「もしもし、暁美帆さんでいらっしゃいますか?」と聞いてきた。
男性の声だったので、梨紗は少し意外に思いながらも答える。
「はい、そうですが。どちら様でしょうか?」
「神崎紀康と申します。こんな遅い時間に失礼します。新しい脚本のヒロインについてお話ししたくて。」
「小田監督から、私の意向はすでに伝わっているはずですが。」
「はい、伺っています。ただ、できれば一度お会いして詳しく――」
「申し訳ありませんが、お断りします。」
「まだ詳しい話もしていませんのに、いきなり断られるとは……暁美帆さん、意外ですね。」
紀康は冗談めかして場を和ませようとしたが、梨紗には全く響かなかった。
「直接会う必要はないと考えています。私は作品に対して常に厳しい姿勢です。まだ契約もしていませんし、入金もありませんから、いつでも脚本を引き上げることができます。」
そう言い切ると、梨紗は相手の返事も待たず、強引に電話を切った。
この晩はもう、誰にも邪魔されたくなかった。スマートフォンをマナーモードにして、浴室へと向かった。
その夜、梨紗は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
これまでならこの時間にはすでに起きて、「完璧な母親」を演じるために動き回っていた。
家には家政婦がいるのに、どうしても自分で父子の朝食を作らずにはいられなかった。
二人の反応が冷たかったり、つまらなそうだったりすると、次の日はまた違うメニューを考えたりと、必死だった。
彼らの機嫌を取るためにどれだけ頑張ってきたのだろう。
その結果がこれなのか。
いつものように体が自然と目覚めたが、今日は朝食の心配などしなかった。
代わりにデスクに向かい、脚本の執筆に没頭した。
誰にも邪魔されない朝は思いのほか心地よく、アイディアが次々と湧いてきて、自分でも驚いた。
この静かな一人暮らしのリズムに、梨紗はだんだんと魅力を感じ始めていた。
そろそろ祖父の会社に行く時間だろう。
スマートフォンを見ると、拓海からの着信が何件も入っていた。
きっと学校まで送ってほしかったのだろうが、今から戻っても間に合わない。迎えに行くことならできるかもしれない。
*****
梨紗はまずレンタルしたドレスを返却し、そのまま祖父の会社に向かうことにした。
表参道のサロン・ド・プライベの店先に着くと、中から店員たちの興奮した声が聞こえてきた。
「えっ、信じられない!神崎社長、早乙女若菜さんにあんなに甘いなんて!あの一千万円のドレスを、迷いもせず買っちゃったよ!早乙女さんが気に入ったって言っただけで、すぐカード出して!」
「それだけじゃないよ!神崎社長、うちに五千万円もチャージしてくれて、早乙女さんが欲しいものがあったら、いつでもカード切っていいって!足りなかったらまた連絡してくれってさ!」
「羨ましい……私もあんなイケメンでお金持ちな人と出会えたらなあ……」
「でも早乙女さんみたいにはなれないでしょ?神崎社長とは永遠の初恋だったらしいし、すごく仲がいいんだって!」
ちょうどその時、梨紗に気づいた店員が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。」
以前対応してくれた店員が、にこやかに微笑んだ。
梨紗は手に持っていた袋を差し出した。
「ドレスの返却に来ました。」
店員は丁寧に中身を確認し、問題がないことを確かめてから言った。
「神崎様、先ほどの話……お聞きになってましたよね。残念ですが、あのドレスは神崎社長が早乙女若菜さんにプレゼントとして購入されました。でも、神崎様の方がずっとお似合いでしたよ。」
「気にしないでください。では、これで失礼します。」
店を出るとき、店内からまたひそひそとした声が聞こえてきた。
「やっぱり、あのドレスは神崎様の雰囲気にぴったりだったのに……」
「はあ……私も神崎社長みたいなパトロンいないかな……」
「さ、仕事仕事!」
梨紗は少し気が散っていて、足元をよく見ていなかったせいか、つまずいて転んでしまった。
膝に痛みを感じたものの、気にせず急いで祖父の会社――一ノ瀬グループへと向かった。
社内には緊張感が漂い、社員たちは足早に、重い表情で行き交っていた。
梨紗は顔見知りの社員を呼び止めた。
「何があったの?」
「お嬢様!会長が半年以上かけて準備してきた大きなプロジェクトが、早乙女グループに奪われてしまったんです!チーム全体が必死に取り組んできたのに、全部水の泡です。今は新しい案件を探して必死に頑張ってますけど、このままじゃ会社が……」
社員の声には焦りと戸惑いが混じっていた。
「早乙女グループが?」
「そうなんです!あそこはいつも私たちの邪魔ばかりしてきて、うちのプロジェクトも何度も横取りされています。今回も……裏で神崎社長が動いていたって噂です。」