社員たちは梨紗と紀康の本当の関係を知らない。
「神崎社長って前にも一緒に仕事したことあるよね?どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」
梨紗は足早におじいさんのオフィスへと向かった。
数日ぶりに会うおじいさんの頭には、さらに白髪が増えていた。苦悩の色が顔に浮かんでいる。梨紗の姿を見つけて、ようやくその目にわずかな光が戻った。
「梨紗?どうして来たんだい?」
「おじいさん、今日は会う約束だったでしょう?」と梨紗はやさしく声をかけた。
おじいさんは自分の額を軽く叩き、困ったように言った。
「いやあ、すっかり忘れていたよ。本当は電話で来なくていいって言おうと思ってたんだ……」
そう言って梨紗を帰そうとするが、梨紗はその場を動かなかった。
「おじいさん、もう私に隠さないで。このままじゃダメだって分かってる。どうせいつか知ることになるんだから。」
「はぁ……」
おじいさんは大きくため息をつき、ふと梨紗の膝に目をやると、急に声が強くなった。
「梨紗、その足はどうしたんだ?」
梨紗はそのとき初めて、自分の膝がいつの間にか擦りむけて血が滲んでいることに気づいた。その痛みは、まるで心の傷のようだった。
「大丈夫、来るときにちょっとぶつけただけ。痛くないから。」
「おじいさん、会社のデータを見せてほしいの。」
「ダメだ!まずは傷の手当てをしなさい!」
おじいさんは強く言い、すぐに会社の保健担当を呼んだ。骨や腱に異常がないと分かると、ようやく梨紗に資料を見せることを許した。
おじいさんのデスクに座り、目の前に並ぶ数字を見て、梨紗は言葉を失った。
「実は……全部が紀康のせいってわけじゃないんだ。」
おじいさんはため息まじりに言った。
「早乙女若菜と紀康の関係はみんな知ってるから、彼が何も言わなくても、自然と早乙女家に味方する人が多くてね。」
梨紗は黙って聞いていた。会社に問題が起きても、おじいさんはいつもギリギリまで梨紗に知らせなかった。
以前、梨紗は養父の神崎宗一郎に頼み、彼が紀康に圧力をかけて、仕方なく何度か手を貸してもらったことがある。
そのときの紀康の冷たい視線が、今でも忘れられない。
「おじいさん、正直に教えて。会社は……もうダメなの?」
「もう隠しきれないな。そうだ、状況は本当に厳しい。いつ倒産してもおかしくない。」
「ごめんね、おじいさんは梨紗の支えになりたかったのに、逆に足を引っ張ってしまった。もし会社が潰れたら、梨紗ももう“お嬢様”ではなくなるし……」
梨紗の目に涙が浮かぶ。母が亡くなった後、おじいさん母だけが彼女にとって家族だった。おじいさんがこの年齢でまだ必死に働いているのは、すべて自分のためだ。
おじいさんはそっと梨紗の背中をさすり、
「泣くな、おじいさんはもう十分生きた。君だけが心残りなんだ。」
梨紗は涙を拭い、真剣な表情で言った。
「おじいさん、今日は事業転換について相談したくて来たの。」
おじいさんは疲れたように首を振る。
「もういい。これからはおばあさんとゆっくり過ごしたい。」
「おじいさん、私の話だけでも聞いてほしいの。」
「事業転換の前に、ひとつ伝えたいことがあるの。おじいさん、《消失》、《再生》、《最後の家族》って映画、見たことある?」
「もちろんあるよ!おばあさんと一緒に観たよ。あれは本当にいい映画だったな。国際的な賞も取ったんだろう?」
「そう。その三作、私が脚本を書いたの。ペンネームは“暁美帆”。実は、私、脚本家なの。」
「暁美帆だって!?」
おじいさんは驚きと喜びで声を上げた。
「梨紗……お前がそんなに立派になってたとは!どうりであの映画が素晴らしいわけだ、私の孫の作品だったんだな!」
しばらくぶりにおじいさんの顔に笑顔が戻った。
「私が考えている事業転換は、脚本家のエージェント会社を作ること。」
「有望な脚本家を発掘・育成し、映像プロジェクトと繋げていく。映画、テレビドラマ、ネットドラマ、ショートドラマにも対応できる。内容の良さが何より大事。うちが良い脚本と安定した供給力を持てば、長く付き合えるパートナーもきっと見つかる。会社を立て直せるはず。」
梨紗は鞄から詳細な企画書を取り出し、おじいさんに手渡した。おじいさんは真剣な眼差しでページをめくり、目が輝き始めた。
「素晴らしい!お前ももう一人前になったな。」
「おじいさんはずっと、お前が縛られているのを心配していた。拓海も大きくなったし、お前はお前の人生を歩むべきだ。」
「今いる社員の転職先は私ができる限り紹介する。推薦状も書く。退職金の分は……」
「お母さんが残してくれた別邸を担保にして、資金を調達したから大丈夫。」
「な、何だって?」
おじいさんは驚きと心配の入り混じった顔で見上げた。
「お母さんの別邸を……」
「おじいさん、私のことを信じて。絶対に取り戻すから。」
「この資金で新しい人材も集められる。会社名義ですぐに新作脚本を発表して、広告も打つつもり。」
梨紗の瞳には強い決意が宿っていた。
着実な計画と覚悟を目の当たりにし、おじいさんはさまざまな思いが胸をよぎったが、ついに決断した。
おじいさんは静かに、しかし力強く告げた。
「梨紗、この会社を……お前に任せるよ。」
「新しい業界のことは分からないし、もう体もついていかない。お前ならできる。」
「分かった、おじいさん。私が会社を守る。」
「よし!おじいさんはお前の明るい未来を楽しみにしているぞ!」
***
重責を引き受けた梨紗は、すぐに仕事に没頭した。夕方、ふと拓海・拓海から何度か電話があったことを思い出し、迷った末に学校へ迎えに行き、食事に誘うことにした。
校門に着くと、遠くから拓海が嬉しそうに走り出てくるのが見えた。梨紗が声をかけようとしたそのとき、拓海はまっすぐに校門に立つあの見慣れた女性のもとへ駆け寄った――早乙女若菜だ。
「お母さん!」
拓海の無邪気な声が梨紗の胸に突き刺さる。
早乙女若菜はやさしく微笑み、拓海の頬をそっとつまんで言った。
「拓海、そんなふうに呼んじゃダメよ。お父さんが困っちゃうでしょう?」
「お父さんは怒らないよ!僕、若菜おばさんが大好きだから、お母さんになってほしいって思ってるんだもん!」
そう言って紀康の腕にしがみつく。
紀康は、梨紗が見たこともないような穏やかな表情で、自然に拓海のランドセルを受け取った。
「さあ、帰ろう。」
まるで“家族”のようなその光景を見て、梨紗は胸が締め付けられる思いだった。
そのまま立ち去ろうとしたが、サヤに呼び止められた。
紀康の視線が人混みを越えて、まっすぐ梨紗を捉えた。
二人の目が合った瞬間、空気がぴたりと張りつめた。