神崎拓海は体をこわばらせた。
母が自分以外の人に「お母さん」と呼ぶのを嫌うことを、彼はよく知っていた。
さっきの「お母さん」という呼びかけ、母は聞いていただろうか。
梨紗はしゃがみ込み、優しい笑顔でサヤに話しかける。
「サヤちゃん、こんにちは。」
サヤは梨紗を見るとすぐに懐き、頬にキスをしてきた。
拓海はカッとなってサヤに近づこうとしたが、紀康に腕を引かれ止められた。
梨紗は拓海の反応に気づかず、サヤの新しい制服を見て心から褒めた。
「新しい制服、すごく似合ってるわ。」
「ありがとう、梨紗さん!」
「梨紗さん、どうしてここに?」
「私は……」
「たまたま通りかかって、サヤちゃんを見かけたから寄ったのよ。」
サヤは梨紗の手を取って言った。
「おばあちゃんがあとで迎えに来るの。梨紗さん、電話してくれない?一緒に帰りたいの。」
梨紗は本邸に行くのをためらい、断ろうとしたその時、聞き慣れた声がした。
「こんにちは。」
サヤのおばあさんが到着したのだった。
梨紗は丁寧に挨拶した。サヤは少し寂しそうだった。
おばあさんは孫の気持ちに気づき、梨紗に笑いかけた。
「この子は前にあなたと会ってから、ずっと会いたがっていたんですよ。」
梨紗はサヤの頬を軽くつねった。
「また会いたくなったら、時間ができたときに来るからね。」
「本当?」サヤの目が輝いた。
「もちろんよ。」
梨紗はサヤのおばあさんに連絡先を渡し、紀康や拓海を一度も振り返らず、そのまま立ち去った。
拓海は母を呼び止めようと口を開いたが、母が自分を完全に無視してサヤにだけ優しくしていたことを思い出し、言葉を飲み込んだ。
紀康も梨紗を引き止める様子はなく、早乙女若菜に「行こう」とだけ言った。
若菜は去っていく梨紗の背中を見つめ、口元にかすかな嘲笑を浮かべた。どうせ馴染めないのに、なぜ無理に入り込もうとするのか。望みのない結婚を守って、苦しむのは結局彼女自身だろうに。
梨紗は帰宅すると、すぐに仕事に全力を注いだ。おじいさんから引き継いだ会社の業務は山積みで、毎日の脚本執筆だけでなく、投資家へのアプローチも休む暇なく行わなければならなかった。
複数の投資会社を選定し、一つひとつ丁寧に分析して記録する。
おじいさんが会社の整理を終えるまでには半月ほどかかる見込みで、その間に万全の準備を整え、引き継ぎ後すぐに動き出せるようにしなければならなかった。
翌日、梨紗はスタッフ監督に電話で休みを申し出た。
「スタントの仕事はまだ続けてますが、休暇を取るのは私の権利です。」
監督は渋々ながらも、仕方なく了承した。ただ、口では厳しいことを言う。
「梨紗、途中で投げ出すなよ。この業界じゃやっていけなくなるぞ。女優になりたいなんて思うな!」
監督だけでなく、多くの関係者が彼女が表舞台を目指していると誤解していた。梨紗は特に説明することもなく、休みさえもらえればそれでよかった。
会社訪問の合間、何度か携帯電話が鳴った。紀康からだった。
出なかったため、すぐメッセージが届いた:
拓海の一言で無視するつもりか?
梨紗は昨日、拓海が自然に「お母さん」と呼んだことを思い出した。それが初めてではないのは明らかだった。
紀康もそばにいて、黙認していたのは明らかだった。
梨紗は返信しなかった。
すぐに二通目が来た:
母親として、なぜ拓海が他の人を「お母さん」と呼ぶのか考えるべきじゃないか? 拓海を無視して罰するのはやめろ。梨紗、結婚してから何も言わなかったけど、拓海からの電話をすべて無視して、本当に「お母さん」といえるのか?
心はとっくに冷え切ったはずなのに、その言葉は針のように胸に刺さり、八年間の努力が一瞬で傷だらけになったような気がした。
それでも梨紗は返信せず、携帯をしまい、何も見なかったように振る舞った。
***
梨紗は清和グループに到着し、受付で用件を伝えた。
受付の女性は申し訳なさそうな顔で言った。
「神崎様、ご予約がない場合、社長はお時間を取れないかと存じます。」
「十分で結構です。どうか取り次いでいただけませんか?」
清和グループは、ここ数年で東京に急成長した新進気鋭の投資会社で、選んだ脚本はどれも大当たりしていた。
梨紗はぜひ直接話をしたかった。
「社長は非常に忙しいなので、まだ出社していません。ご予約をお勧めします。」
予約の手続きは煩雑で、梨紗のような無名の人間は、順番が回ってくるかも分からない。直接会う方が効率がよい。
「社長さんはだいたい何時ごろ来られますか?」
「それが……私たちも分かりかねます。」
「今日中にはいらっしゃいますか?」
「申し訳ありません、それも分かりません。」
梨紗はこれ以上受付を困らせず、「ありがとうございます」とだけ言って会社前の待合スペースに座った。
日差しが強く、流産の手術からしばらく経っていたが、あの日の雨で体に冷えが残っており、まだ本調子ではなかった。最初は日向ぼっこが心地よかったが、次第にめまいがしてきた。
どれほど待ったか分からない。限界が近づき、自分でも支えきれないと感じたそのとき、誰かがしっかりと体を支えてくれた。
ハッと目を開けると、相手の顔を見て小さく謝った。
「ごめんなさい、おじさん、私……」
清和雅彦は何も言わず、脈を取りながら眉をひそめ、そのまま梨紗を抱き上げて清和グループの社内へと運んだ。
受付はその光景に目を見開いて驚いた。
「し、社長……?」
「おじさん、降ろしてください、自分で歩けます……」
梨紗は抵抗した。
雅彦は足を止めず、少し厳しい口調で言った。
「うちの会社の前で倒れるとは、余計な問題を起こして、メディアのネタにでもなりたいのか?」
「おじさん、ここ……おじさんの会社だったんですか?」
「事前に調べてこなかったのか?」
梨紗が調べた法人名は雅彦の名前ではなく、関連情報にも彼の存在は見当たらなかった。
雅彦は梨紗を広いオフィスのソファに寝かせた。受付がすぐにお茶を持ってきて、好奇心を抑えながらも静かに退室した。
温かい水を飲み、梨紗は少し落ち着いた。
雅彦はもう一度脈を取り、しばらくしてから手を離し、叱るような口調で言った。
「お大事に。」