梨紗はようやく今回の目的を思い出した。しかし、清和雅彦と神崎紀康が神崎家の血縁であることを考えると、たとえ関係が薄くとも、無意識にその繋がりを避けたい気持ちが湧いてくる。
彼女がテーブルの上の書類を手に取ろうとした瞬間、清和雅彦がそれよりも早く手を伸ばし、さっと取ってしまった。
「おじさん……」
取り返そうとしたが、雅彦はすでに書類を開いて中身に目を通していた。
数秒後、鋭い視線で梨紗を見つめる。
「君がおじいさんの会社の転換を引き継いで、経営を任されるのか?君が脚本家の暁美帆なんだね?」
書類にははっきりと書かれていたので、梨紗は否定せず、静かにうなずいた。
清和雅彦は書類を閉じた。
「つまり、「暁美帆」という名前と実績を武器にして投資を集め、プロジェクトを優先的に始動させて、資金を早く回収し会社を立て直すつもりだろう?」
「「暁美帆」として投資を呼び込むのは難しくない。ただ、新人脚本家チームを育てるのは簡単じゃないよ」と雅彦は本質を突いた。
梨紗も十分承知していたが、離婚後、自分の基盤と仕事はどうしても必要だった。
清和雅彦は内線を取り、秘書に指示する。
「この書類の内容に基づいて、最高レベルの脚本家マネジメント事業の業務提携契約書をすぐに用意して持ってきて」
梨紗は驚いて聞き返す。
「私と契約するつもりですか?」
「君は「暁美帆」だ。すべてがヒットするとは限らないが、君と仕事をすること自体が貴重なリソースだ。先手を打っておくのは、君のスタートにもプラスになる。清和グループと組めば、今後の投資家との話し合いもずっとスムーズになるはずだ」
この上ないチャンスに、梨紗の心は大きく揺れた。
「でも、私の条件はかなり厳しいですよ」と念を押す。
「脚本の内容もキャスティングも、私が絶対的な決定権を持ちます。資本が口を出してきても、私は譲りません。それでもいいんですか?」
雅彦は肩をすくめた。
「この業界ではコネでごり押しするのが当たり前で、くだらない作品ばかりだ。もし中身で勝負して新しい道を切り開けるなら、むしろそっちのほうが価値があると思うよ」
梨紗は彼を見つめ、言葉を失った。
「そんなに見つめてどうしたの?」と雅彦が眉を上げる。
「おじさん、どうして……」
「どうして助けるかって?別に助けてるわけじゃない。俺はビジネスマンだからね。君を助けるんじゃなくて、俺が有望だと思うプロジェクトと人に投資してるだけだよ」と書類を指し、
「俺が見ているのは「暁美帆」とこの計画のビジネスとしての可能性だ」
梨紗はほっとして微笑んだ。そうだ、清和雅彦がビジネス界で成功したのは、情よりも実利を重んじるからだ。
まもなく秘書が契約書を持ってきた。その好条件は梨紗の想像を遥かに超えていた。会社のため、断る理由はなかった。
署名をした瞬間、梨紗は心の中で「仕事は仕事、プライベートはプライベート」と自分に言い聞かせた。
自分の分の契約書を手にして帰ろうとした時、背後から雅彦の声が聞こえた。
「新しい髪型、よく似合ってるよ」
梨紗は思わず立ち止まり、髪を切ったことを思い出して、小さな声で「ありがとう」と返した。
そのままオフィスを後にする。
清和グループの後ろ盾と「暁美帆」の名前のおかげで、その後の資金調達の話はぐんと進みやすくなった。
このニュースは、すぐに紀康の耳にも入った。彼は以前に「暁美帆」の脚本を読んだことがあり、非常にクールで人前に出ない謎めいた人物だと感じていたが、まさか今、積極的に仕事を探しているとは思いもしなかった。
若菜のために役を取ってやりたい紀康にとっては好機だった。
どうにかして「暁美帆」の仕事用連絡先を入手し、すぐに電話をかけた。
長いコール音――しかし誰も出なかった。
紀康は意外そうに眉をひそめた。
梨紗は着信画面に「ワーク番号」――紀康の名前が表示されているのを見つめる。
彼が何のために電話してきたかは分かっている。若菜を使わない理由は私情ではなく、若菜の役柄や雰囲気が脚本の主人公とまるで合わないからだ。
梨紗は若菜のことをよく知っている。彼女にはその役は到底務まらない。
自分の大切な作品を無駄にしたくはない。だから、何もなかったことにした。
すぐにメッセージが届く:
暁美帆先生、一度お会いできませんか。
梨紗はそのメッセージをさっと削除した。
***
夜、早川思織に食事に誘われた。レストランに入って席についた途端、紀康、早乙女若菜、中村和生、高橋青石の四人が店に入ってくるのが目に入った。
早川思織は眉をひそめて小声で言う。
「別の店にしようか?」
梨紗は目をそらし、静かに答える。
「いいよ。なんで私たちが避けなきゃいけないの?」
思織も納得した。特に若菜が当然のように紀康の隣にいる姿を見ると、余計に腹が立った。
梨紗は声をかけず、紀康に目を向けたが、彼も梨紗を見ようとせず、終始若菜に視線を向けていた。
彼らが個室へ向かう途中、急いで店を出ようとした客が梨紗にぶつかり、バランスを崩してしまう。そのまま紀康の方に倒れかけた。
「梨紗!」
思織が慌てて手を伸ばすよりも早く、紀康が反射的に梨紗の腕を支え、立て直してくれた。
梨紗は体勢を整え、紀康を見上げる。だが彼の視線は梨紗の顔に留まることなく、まるで赤の他人を助けただけのように、すぐにまた若菜の方へ目を戻し、何かを小声で話しかけている。
横で中村和生が小さく鼻で笑い、軽蔑を隠そうともしない。
梨紗はその視線の意味を理解した。紀康が自分を見ないのなら、こちらも礼を言う必要はない。ただ黙って思織と自分の席へ戻った。
「大丈夫?足、ひねってない?」
思織が心配そうに尋ねる。
梨紗は首を振って足首を軽く動かし、問題ないことを示した。思織も安心した様子。
席に着くと、思織が梨紗をじっと見て、目を輝かせる。
「最近すごく元気になったね!髪型も変えたら雰囲気まで変わったし、その服も今までで一番似合ってる!本当に褒めたかったんだ!」
「そう?私もそう思う。これが本来の私かもしれない。きっと、もっと良くなるよ」
思織が力強くうなずく。
梨紗は水を一口飲んだ。新しい髪型を雅彦も思織も気付いてくれた。元夫だったあの人だけが、まるで見えていないようだった。
けれど――もう、どうでもよかった。
***
個室にて。
中村和生は席に着くなり、若菜の前でも遠慮せず紀康に言った。
「まさかこんな偶然ある?あれ、もしかして今日君がこの店を予約したの知ってて、わざわざ思織と一緒に“偶然”を装って来たんじゃないの?」
「昔は余裕ぶってたのに、今は若菜とうまくいってるの見て焦ってるんじゃない?そんな手で君の気を引こうとするなんて」
「紀康、いつになったら離婚するんだ?早く若菜と結婚してやれよ。今どき結婚してる俳優も多いし、若菜の仕事に影響なんてないって」
高橋青石は黙って聞いていた。
紀康は無言でお茶を口に運ぶ。若菜も平静を装いつつ、彼の返答を待っていた。
追いかけられる立場は心地いいが、結婚や出産は自分のキャリアを縛る。だが、紀康の気持ちは確かめておきたかった。
中村和生は若菜の方を見て、満面の笑みを浮かべる。美しく、成功し、受賞歴もあり、これから暁美帆の脚本を演出する。将来有望だ。
梨紗なんて、ただの策略家にしか見えない。紀康が早く離婚してくれればいいと願っていた。
「料理が来たし、食べよう」と紀康がようやく口を開き、感情の見えない声で言った。
若菜は一瞬沈んだが、すぐに気を取り直す。今すぐ離婚しないのは、神崎宗一郎の体調や気持ちを考えてのことだと理解していた。
***
梨紗は洗面所で手を洗い、振り返ったところで紀康が入ってくるのに鉢合わせた。
足を止めず、すれ違おうとする。
その時、紀康の低い声が響いた。
「最近、楽しそうだな?」