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第29話 雨の中の無視


梨紗は鏡越しに背後の紀康をちらりと見た。


手を洗う彼の動作には、生まれつきの上品さと、すべてを掌握する冷たさが滲んでいる。幼い頃に命を救われた恩がなくても、こんな男性を前にしたら、誰でも心が動くだろう。


さっきの「楽しそうだな」という一言も、意味がよく分からない。

彼女が楽しそうにしていたことを皮肉ったのか、それともふとした「気遣い」なのか。


深く考える気はなかった。ただ一つ、気になることがあるだけ――


「離婚……」


離婚手続きについて聞きかけたその時、早乙女若菜が部屋に入ってきた。親しげな口調で、まっすぐ紀康を見つめる。


「ずいぶん長かったから、体調でも悪いのかと思ったよ」

「みんな待ってるから、早く戻ろう」


紀康はハンカチで手を拭うと、梨紗に一瞥もくれず、早乙女若菜と一緒に部屋を出ていった。

早乙女若菜は、最初から最後まで梨紗の存在などまるで見えていないかのようで、その徹底した無視は、あからさまな敵意よりもよほど堪えた。


席に戻ると、早川思織がすぐに身を寄せ、小声で話しかけてきた。


「さっきトイレに行ったでしょ?早乙女若菜もすぐ後に出てったよ。何かされたりしなかった?」

「本当にひどいよね!堂々と二人で行動して、梨紗のこと何だと思ってるの?あんな男、見る目なかったわ……」


早川思織は怒りを隠さない。

二人の過去を知っていて、かつてはその深い愛情に憧れたこともあった。

でも、どんなに愛があっても既婚者であることを忘れていいはずがない。

嫌なら離婚すればいい。それなのに、これはあんまりだ。


「もういいから、ご飯食べよ」


梨紗がそう言うと、早川思織も黙って食事に集中した。梨紗が祖父の会社を引き継いで改革に取り組んでいると聞いて、彼女は心から応援していた。


「何かあったら何でも言ってね!」

「もちろん、あなたを巻き込む時は逃げられないよ」


梨紗がそう言って、二人でグラスを軽く合わせた。


ちょうど会計を済ませた時、紀康たちも店を出てきた。

早川思織が梨紗を送ろうとしたが、梨紗はやんわりと断った。


「タクシーで帰るから大丈夫」

「梨紗、自分の車買いなよ、その方が便利だよ」


梨紗は運転できるものの、神崎家の車には触れたくなかった。離婚前で財産の整理も曖昧だし、手元の資金は会社の運営に使っているから、車を買うのは後回しだ。


思織が何か言いかけた時、彼女のスマホが急に鳴り始めた。通話を終えると、顔色が変わる。


「梨紗、ごめん!急用ができちゃった。気をつけて帰ってね!」


そう言って、慌ただしく車で去っていった。

「分かった」と梨紗は返事をし、タクシーを呼ぼうとしたその時、突然大粒の雨が降り出した。


思わず後ろに下がった瞬間、背中が誰かの胸にぶつかり、足元で相手の靴を踏んでしまう。

「ごめ……」と言いかけて、言葉が詰まる――紀康だった。


梨紗はすぐに距離を取った。

中村和生は鼻で笑い、嘲るような視線を向ける。またか?偶然を装って、しつこい女だとでも思っているのか。


数人がレストランの軒先で雨宿りをしていた。

梨紗は一人隅に身を寄せる。薄手の服では急な冷えと湿気を防げず、寒さが骨身にしみて、思わず腕を抱え小さく震えた。

一方、早乙女若菜も薄着で寒そうに身を縮めていた。


その時、紀康がすぐに自分の上着を脱ぎ、自然な仕草で早乙女若菜の肩にかけてやる。

早乙女若菜は顔を上げ、甘えるような笑顔で、少し心配そうに言う。


「そんなことしたら、寒くなっちゃうよ?」

「俺は平気だ」


紀康の声は穏やかだった。

中村和生は、端にいる梨紗の方を面白そうに一瞥した。この光景、彼女が見ていないわけがない。


冷えが足元から這い上がってくる。体調が回復しきらない梨紗には、この湿気はこたえる。

一刻も早く帰りたいが、雨は強まる一方で、タクシーもつかまらない。


そんな時、何台かの高級車が次々と到着し、運転手たちが揃いの黒い傘を持って出迎えに来た。

紀康の運転手も傘を持って現れ、隅で震えている梨紗に一瞬気づいて戸惑った様子を見せるが、そのまま紀康の指示を待つ。


紀康は運転手から傘を受け取り、早乙女若菜の肩を自然に抱き、二人で車へと向かった。その間、一度も梨紗に視線を向けることはなかった。


中村和生と高橋青石もそれぞれ車に乗り込んだ。

最後に残った高橋青石だけはすぐに車に乗らず、前の車が出発した後、傘を差して梨紗の前に歩み寄り、そっと傘を差し出した。


「これ、使って」

「結構です」


梨紗は素っ気なく答える。

ちょうど空車のタクシーがやってきたので、すぐにドアを開けて乗り込んだ。

タクシーは雨の中に消えていった。


高橋青石はしばらくその場に立って、車が見えなくなってから、ようやく傘をたたみ自分の車に戻った。


梨紗の肩や背中はすっかり濡れてしまっていた。家に帰るとすぐに熱いシャワーを浴び、大きなカップで何杯もお湯を飲み、ようやく体が温まったものの、止まらずに何度も小さく震えが走った。


スマホを見ると、早川思織から着信があった。梨紗は折り返し電話をかけた。


「梨紗!あんなに雨が降ってたのに、どうやって帰ったの?送ってくれた?」

「ううん、タクシーで帰った」

「タクシー?旦那さんが手配したの?」

「違うよ」

「じゃあ、送ろうとしてくれたのを断ったの?」

「それも違う」

早川思織は苛立った。「じゃあ、どういうこと?どれも違うなんて!」

梨紗は詳しく説明する気になれず、「もう大丈夫。そっちは落ち着いた?」と話題を変えた。

「うん、なんとか終わったよ。急用じゃなかったら、絶対引き返して迎えに行ったのに!終わったらすぐ電話しようって思ってたんだ」


早川思織は、梨紗の声が普段より元気がないのに気づいた。


「本当に大丈夫?声が変だよ」

「うん、もう大丈夫。だいぶ良くなったから」


梨紗が努めて平静を装うと、思織もそれ以上は言わなかった。


電話を切った途端、また着信があった。表示された名前は――神崎宗一郎。


「梨紗、明日の夜、時間あるか」

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