「うん。」
梨紗は義父の神崎宗一郎からの電話に応じた。
「明日の夜、銀座ル・シエルを予約してある。時間通りに来てくれ。」
梨紗は了承した。もうすぐ離婚するとはいえ、宗一郎の自分への気遣いには応えたい。紀康は紀康、宗一郎は宗一郎だ。
一日中忙しく働き、夕方六時半、梨紗は時間通りに銀座ル・シエルへ到着した。
スタッフは彼女を見つけると、丁寧に一礼して「神崎様、どうぞこちらへ」と案内した。
梨紗は少し戸惑いながらも、スタッフについていく。案内されたのは上品に飾られた個室だった。
「ここは……?」
「神崎様のご指示で、ドレスアップとお着替えのご用意をさせていただいております。」
スタッフの説明を聞き、梨紗ははっとした――今日は結婚記念日だった。
彼女と紀康は結婚式を挙げていない。これは彼が唯一譲らなかった条件だ。宗一郎が結婚を後押しした時、紀康は籍を入れることだけを認め、式は断固拒否した。
宗一郎は梨紗を不憫に思っていたが、梨紗自身は気にしていなかった。あの頃、彼女は子どものために「普通の家庭」を作ることだけを考えていたのだ。
子どもが生まれてから、紀康は息子には優しかった。でも今では、その息子さえも……梨紗はすでに何も期待していなかった。今年はこの日すらすっかり忘れていた。
この前、神崎家で宗一郎が「今年はちゃんと用意する」と言っていた。紀康にその気がないのを見て、宗一郎が自ら準備したのだろう。
スタイリストが丁寧に梨紗をドレスアップする。鏡の中の自分は、いつもとまるで別人のようだった。その後、梨紗はロマンチックに飾られた個室へ案内された。
花やキャンドル、上品な食器……雰囲気は完璧だった。ただ、梨紗は写真を撮る気にもならず、スマートフォンをぼんやりと眺めていた。
時間だけが過ぎていく。
30分。
1時間。
1時間半が経った頃、早川思織から電話がかかってきた。
「今どこ?早く来てよ!花火がすっごくキレイだよ!」
「花火?」梨紗は不思議に思った。今日は祝日でもない。
「うん!これからまた上がるって!早く来て!」
梨紗は紀康が来るかどうか分からなかったが、これは宗一郎の準備した席なので勝手に帰るわけにもいかなかった。
「ごめん、ちょっと用事があって行けないの。」
「え〜、残念!……あれ?」
「どうしたの?」
「なんかね、隣の人が……この花火、早乙女若菜のためのものだって言ってた。今日、彼女の誕生日みたい。」
思織は言ってしまった!とすぐに気づき、慌てて言い直した。
「あ、いや、聞き間違いかも!ごめんね、またね!」
梨紗は何も言わなかったが、すべてを悟った。紀康は来ないし、息子の拓海も来ない。きっと今ごろ、二人は早乙女若菜と一緒なのだろう。
噂はすぐに広まる。梨紗のスマホにもすぐトレンドニュースが流れてきた。
【速報】早乙女若菜の誕生日に謎の大富豪が花火大会をプレゼント!
コメント欄は「紀康じゃないか」と憶測が飛び交い、「神崎&若菜カップル」ファンは大盛り上がりで二人の公式発表を待ち望んでいた。
窓の外、遠くの夜空には華やかな花火が広がっていた。そのきらめきは、まるでこの個室で一人きりの梨紗をからかうようだった。
梨紗はもう待つのをやめた。静かにスタッフに伝えた。
「神崎様に、先に失礼しますとお伝えください。」
そう言い残し、誰も来なかった“記念日”の会場を後にした。
家に戻ってスマホを更新すると、花火のニュースはすでに消えていた。紀康が消させたのだろう――宗一郎に知られたくないからだ。父親の身体を気遣ってのことだろう。
もちろん、紀康は宗一郎に自分が結婚記念日に来なかったことも絶対に知らせない。
このすべてを、梨紗は一人で受け止めるしかなかった。
紀康からは電話もメッセージもない。何の説明もない。毎年のことだ。
梨紗はSNSを開き、偶然、早乙女若菜の友人が投稿した写真を見つけた。真ん中には、早乙女若菜と紀康が並んで笑顔で写っており、二人は大きなハートで囲まれていた。
投稿文には幸せな誕生日の様子があふれていた。彼らは“忘れられない夜”を過ごしたようだった。
梨紗は無表情のまま、その友人をブロックし、削除した。
翌朝。
宗一郎から定刻通りに電話がかかってきた。
「梨紗、昨夜は紀康と仲良く過ごせたか?」
梨紗はいつも通りの口調で答えた。宗一郎を苦しめているのは紀康であって、自分ではない。わざわざ真実を告げる必要も、紀康のために嘘をつく義務もない。「悪者」は自分でやればいい。
「それなら良かった。人の心は通じるものだ。もう八年一緒にいるんだ、これからもっと良くなるはずだ。」
「仕事があるんだろう?無理せず、今度時間があるとき帰っておいで。」
執筆中、スマホの画面が光った。「紀康」からの着信だった。
梨紗は一瞥し、無言で画面を伏せた。
執筆に没頭し、どれくらい時間が経っただろう。ようやくスマホを手に取ると、紀康から何度も不在着信があり、メッセージが一通――
「今夜は用事がある。拓海を迎えに行ってくれ。」
一方的な連絡だった。
梨紗は返信しなかった。息子を迎えに行くのは自分の役目であり、議論の余地はない。
昼間の仕事を終え、梨紗は時間通りに学校の門に立った。
拓海は梨紗の姿を見つけると、小走りで近寄ってきた。少し驚いた表情だった。
「お母さん?どうして来たの?」
「お父さんが用事があるから、私が迎えに来たの。」
「……うん。」
拓海は曖昧に返事をした。嬉しいのか、がっかりしているのか分からなかった。
梨紗には分かっていた。普段は紀康が、華やかな早乙女若菜と一緒に迎えに来ることが多かったからだ。国民的女優の“ママ”のほうが、普通の母親より見栄えがいいに決まっている。拓海は手をつなぐこともなく、梨紗も無理に手を伸ばさなかった。
その時、同級生の一人が駆け寄ってきて、興味津々に尋ねた。
「神崎くん、その人がお母さん?」
拓海は梨紗を一瞥したが、何も言わず紹介する気配もなかった。
けれど、その子は自分のペースで感心して、羨望のまなざしで拓海に言った。
「神崎くんのお母さん、めっちゃキレイだね!今まで見た芸能人よりずっとキレイ!」
拓海は驚き、もう一度梨紗を見つめた。小学生になって以来、「お母さんがきれい」と言われたのはこれで二度目だ。お母さん……若菜さんほどじゃないけど?
その後も、何人かの子どもや保護者が梨紗に目を止め、小声でその美しさや雰囲気を褒めていた。
拓海は、そっと自分の小さな手を梨紗の手のひらに滑り込ませた。
梨紗はその手を払いのけず、静かに握り返した。母親としての責任を、彼女は決して放棄しない。
車は使わず、梨紗はタクシーで帰るつもりだった。拓海が顔を上げて言った。
「お母さん、今日は外でごはん食べていい?」
「なにが食べたい?」
「中華がいい!」
「わかった、連れていくよ。」
拓海はますます驚いた。いつもなら「外食は味が濃いし健康に良くない」と断られるのに、今日はどうして……。
梨紗は評判のいい中華料理店を選んだ。
ホールに入った瞬間、ふと目がガラスの仕切りのある半個室に止まった
――そこには、紀康と早乙女若菜が、業界の有名な監督やプロデューサーたちと楽しげに談笑している姿があった。