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第31話 息子の選択


レストランの明るい照明の下、神崎拓海はガラスの仕切り越しに見えた姿をすぐに認識し、ぱっと顔が明るくなった。


「パパ!」


思わず駆け寄ろうとしたが、梨紗がそっと腕を引き止めた。


「今は大事な話をしているみたい。邪魔しちゃだめよ。」


彼女の声は落ち着いていた。


拓海は少し不満そうに口を尖らせた。


「僕、若菜さんと食事する時はいつも個室だよ。僕たちも個室がいい!」


隣にいた店員に向き直り、少しわがままな口調で言う。


「個室にしてください!」


店員は困ったような表情で答えた。


「申し訳ありませんが、個室は最低でも五、六名様からご利用いただけます。おふたりではちょっと……」

「個室がいい!」


拓海は腕を組み、頑なに顔を上げた。


梨紗はそんな息子の態度には構わず、さっとメニューを手に取ると、普段拓海が苦手な野菜料理をいくつか指差した。


「これでお願いします。」


そう店員に伝えた。


拓海は個室のことなどすっかり忘れて、顔をしかめて抗議した。


「ママ!これ食べたくない!」

「じゃあ、個室もいらないわね?」


梨紗は淡々と返した。


拓海はしばらく葛藤したが、苦手な食べ物への恐怖には勝てず、しょんぼりと首を振った。梨紗はようやくメニューを店員に返した。


料理が運ばれてきて間もなく、個室エリアから少しふくよかな中年男性が出てきた。ホールを見回し、梨紗の姿を見つけると、驚いた顔で大股に近づいてきた。


「いやぁ、偶然だね!」


声が大きく、興味深そうに拓海を見つめる。


「おや、息子さん?今日はふたりだけ?ご主人はどうしたの……あ、そうか、きっとお仕事で忙しいんだろうね。でも全然変わらないね、ママになってもスタイルもそのままで!」


ひとしきり話し、拓海にも軽く話しかける。


梨紗は礼儀だけは守りつつも、冷静に返す。


「小田監督、お忙しいところすみません。私たちはただ食事に来ただけです。」


小田は笑いながらその場を離れた。梨紗は特に気にする様子もなく、だがスマートフォンが連続して震え始めた。


紀康からのメッセージは冷たい問いかけだった。


「わざと子どもを連れてきたのか?みんなに知らせたいのか?」


梨紗が顔を上げると、仕切り越しに紀康と早乙女若菜の視線が自分に向けられていた。ひとつは詮索するように、もうひとつはどこか見下すように。


梨紗は返信せず、しばらく画面を見つめてからロックした。


すぐに二通目。


「食事が終わったらすぐ帰れ。会計は俺の名義で。」


梨紗は短く返した。


「自分で払う。」


またすぐに、苛立ちの滲むメッセージ。


「俺を怒らせるな。」


梨紗は無言でスマホをテーブルに伏せた。彼が本当に隠したいのは、息子の存在ではなく、「神崎様」としての体裁なのだと、梨紗はよくわかっていた。


それでも、梨紗は急いで帰る気はなかった。案の定、間もなくレストランのマネージャーが困った顔で彼女のそばにやってきて、そっと声をかけた。


「神崎様、あちらの社長が……少しご都合が悪いようで、もしよろしければ……」


梨紗はゆっくりと豚のスペアリブを箸で持ち上げ、小さな声ながらはっきりと答えた。


「営業中ですよね。食事が終わったら帰ります。」


横目で見ると、若菜がほくそ笑むのが見え、拓海は嬉しそうに向こうに手を振っていた。


食事の後、梨紗は拓海と近くの公園を散歩した。夜風が少し冷たく、梨紗はスマホを取り出して紀康にメッセージを送った。


「遠いし車もないから、終わったら自分で拓海を迎えに来て。」


返事はなかった。しばらくして、見慣れた黒塗りの車が道端に停まり、運転手の田中が顔を出した。


「奥様、どうぞ。」


広い京都の邸宅に戻ると、梨紗は玄関で息子を見送り、そのまま帰ろうとした。だが、拓海が急に手首をつかみ、不安げな表情で問いかけた。


「ママ、また帰らないの?どうして最近、家にいないの?」

「ママは仕事が忙しいの。しばらく帰れないわ。」

「どんな仕事?若菜お姉さんは最近、いつも暇そうなのに!」


拓海は梨紗の目をじっと見つめ、ふと思いついたように言った。


「ママ……もしかしてパパと離婚するの?」


空気が一瞬、凍りついた。梨紗は、澄んだ迷いのあるその目を見つめながら、ずっと胸の奥にあった疑問を、やっと小さな声で口にした。


「もし……パパとママが本当に別れることになったら、どっちについていきたい?」

「もちろんパパだよ!」


拓海は一瞬の迷いもなく、即答した。


梨紗の唇がかすかに動き、笑いそうになったが、滲むのは苦い思いだけだった。この答えは、梨紗もなんとなく分かっていた。


拓海は気まずそうにあわてて付け加えた。


「ママ、怒らないで!そんなつもりじゃないんだ……僕、パパとママに離婚してほしくない!」


少し間を置いて、幼い欲張りな気持ちをこっそり打ち明けた。


「ママ、二人のママじゃだめ?」


その一言が、梨紗の胸に小さな針のように刺さった。梨紗は結局、笑うことができず、ただ静かに拓海の頭を撫でた。


「その願いは、ママには叶えられそうにないわ。」

「拓海、ママは用事があるから、もう行くね。」

「行かないで、ママ!」


拓海はまた母の服の裾をつかみ、心細さと甘えを隠せない。


「パパ、いつ帰るかわからないし、ママ一緒にいてよ?」


梨紗は息子の向こうに夜の闇を見つめる。今ごろ紀康は、若菜の新しいプロジェクトで接待の真っ最中だろうか。


彼女はそっと服の裾を引き抜き、優しいがきっぱりとした口調で言った。


「パパに会いたくなったら、自分で電話しなさい。」


そう言い残し、背筋を伸ばして家を後にした。息子の名残惜しそうな視線も、家政婦の松本のため息も、重い扉の向こうに閉じ込めて。


玄関の灯りが冷たく照らす中、の結婚生活は、足元に薄くて鋭い氷のように残されていた。

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