かなり長い時間歩いた後、梨紗はやっと道端でタクシーをつかまえた。
ちょうどドアを開けようとしたその時、路地の奥から激しい喧嘩の音と、どこか聞き覚えのある罵声が聞こえてきた。
梨紗は思わず足を止め、目を凝らして人だかりを見ると、左耳に輝くピアスをつけ、栗色の髪をした男性がひときわ目立っていた。
「裕亮?」
梨紗はおそるおそる呼んでみた。
その瞬間、喧嘩がピタリと止まり、男が声の方を振り向いた。口元には相変わらずのいたずらっぽい笑み。梨紗だと気づくと、目を輝かせた。
「梨紗!」
梨紗はすかさずスマホを取り出し、集まっていた男たちに向かって強い口調で言った。
「もうすぐ警察が来るわよ!面倒なことになりたくなかったら、さっさと消えなさい!」
リーダー格の男たちは河田裕亮を睨みつけ、「覚えてろよ」と吐き捨てて夜の闇に消えていった。
梨紗はほっと息をつき、裕亮を手招きしてタクシーに乗せた。
梨紗の部屋に戻ると、彼女は冷蔵庫から冷却シートを取り出して裕亮に手渡した。裕亮は痛そうに顔をしかめながら青あざの口元に貼った。
「いってぇ……もうちょっと手加減してくれりゃいいのに!俺の彼氏を横取りしようとしたやつが悪いんだぜ、俺をなめんなよ?」
「また彼氏変えたの?」
梨紗は呆れ顔で大学時代の同級生を見た。裕亮は日本文学を専攻し、脚本作りが大好きだった。
裕亮は梨紗の隣にすり寄り、からかうように言った。
「今度紹介しようかと思ってたんだ、超イケメン!でもなあ、梨紗に取られそうで怖いからやめとくわ。」
梨紗はその冗談には乗らず、問いかけた。
「ずっと海外にいるんじゃなかったの?どうして急に帰ってきたの?」
「アメリカはもう飽きたよ。」
冷却シートを貼ったまま、裕亮は気の抜けた口調で続けた。「日本には良い脚本が多いけど、主役を張れる俳優が少ないんだ。」
裕亮は、海外で評判のいい脚本を二つも書き、脚本家の間でそれなりに名を馳せていた。
梨紗はふと思い立ち、自分が祖父の会社を引き継いで脚本家マネジメントへ転換しようとしていること、今の日本では流行り優先で俳優の適性が軽視されている現状を率直に話した。
裕亮は顎に手を当て、興味深そうな目で聞いていた。
「それ、けっこう面白そうじゃん。俺にどれくらい株くれる気?」
「どれくらい欲しいの?」
「八割?」
「図々しい!」
梨紗は睨みながら言うと、裕亮は大笑いした。
「詩織から、梨紗は最近おとなしくなったって聞いたけど、全然変わってないじゃん!やっぱり元気だな!」
笑いが落ち着くと、裕亮はふと真剣な顔つきになり、心配そうに言った。
「聞いたけど、あの義妹とその男、けっこうひどいことしてるんだろ?俺が一肌脱いで、神崎のやつから若菜を奪ってやろうか?」
「いいよ。」
「クズ男と嫌な女、お似合いでしょ。わざわざ引き離すことないわ。」
その後、早川詩織が駆けつけ、裕亮が参加するならと、すぐに出資を申し出た。久しぶりに集まった三人は話が弾み、つい酒も進んだ。詩織と裕亮はそのまま梨紗の部屋に泊まることになった。
翌朝、けたたましいスマホの着信音で三人は目を覚ました。
梨紗が画面を見ると「紀康」と表示されている。切ろうとした瞬間、裕亮が素早く携帯を奪い、勝手に応答した。
「うちの梨紗に何か用?」
裕亮は眠そうな、しかし親しげな口調で言った。
電話口の紀康は明らかに黙り込み、やや低い声で返す。
「お前、誰だ?」
「お前が知る必要ある?」
裕亮は挑発的に返す。
「用があるなら言えよ、ないなら切る。梨紗のことは俺のことだ。」
「……彼女を出せ。」紀康の声は冷たかった。
「無理だね。じゃあな!」
裕亮はさっさと電話を切り、得意げに梨紗に携帯を投げ返した。
「どうせ大した用じゃないさ。本当に大事なことなら何度でもかけてくるって!」
以前の梨紗なら、紀康が知らない男に電話を取られてどんな顔をしているか、少しは気にしたかもしれない。
今は、もうどうでもよかった。本当に必要なら、またかけてくるだろう。スマホは静かに梨紗の手の中に収まったままだった。
裕亮は梨紗の表情をうかがいながら、そっと聞いた。
「俺が電話に出ても、怒ってないよな?」
「ううん。」
梨紗は何もなかったように、昨夜の片付けを始めた。
詩織と裕亮は顔を見合わせ、少し安心した。
その時、スマホが再び鳴り、今度は祖母からの着信だった。裕亮が手渡す。
梨紗が出ると、祖母の切羽詰まった泣き声が響いてきた。梨紗の顔から血の気が引き、手が真っ白になるほどスマホを握りしめる。
「おばあちゃん、落ち着いて!すぐに行くから!」
電話を切ると、梨紗はその場に固まった。
詩織と裕亮が慌てて駆け寄る。
「梨紗、大丈夫?」
梨紗の声は震えていた。
「おじいちゃんが……倒れて入院したの。」