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第33話 彼に母のことを語る資格はない


病院には、強い消毒液の匂いが漂っていた。


梨紗が駆けつけたとき、祖母は不安げに救急室の前で待っていた。

梨紗は足早に近づき、緊張を押し殺した声で尋ねた。


「お祖母ちゃん、お祖父ちゃんの様子はどう?」

「まだ分からないよ。今、詳しく検査してもらってるところだ。着いたらすぐに君に電話したんだよ」


祖母は梨紗の手をぎゅっと握りしめ、顔には心配の色が浮かんでいる。


早川思織がそっと声をかけた。


「梨紗、大丈夫だよ。お祖父さんは元気だったし、きっと平気だから」

「久しぶり!」


河田裕亮もやってきて、いつものにこやかな表情を浮かべている。


祖母は彼をじっと見つめ、やっと思い出したように声を上げた。

「河田君?あなたなのね?」

「はい、僕です」


河田裕亮は笑いながら近づき、祖母をしっかりと抱きしめた。

祖母は「痛い痛い」と笑いながら彼を軽く叩いた。


「もう、優しくしてよ。年寄りの骨は折れやすいんだから」

「そんなことないですよ、まだまだ元気です!」


河田裕亮は手を放し、屈託なく笑っていた。

祖母は呆れたように彼の額を指で軽くつついた。


「ほんとに、昔と変わらないね、この子は」


そのとき、廊下の奥に紀康の姿が見えた。早川思織がすぐに気づき、梨紗の腕をそっとつついて合図した。

梨紗が顔を上げると、ちょうど紀康と目が合った。彼は無表情のまま、河田裕亮と祖母の親しげな様子を一瞬見やり、すぐに目をそらして何事もなかったかのように歩き去った。


早川思織は小声で憤慨した。


「冷たい人だね」


梨紗は低く制し、祖母に余計な心配をかけたくなかった。


大人同士の間では、言葉にしない沈黙が最後の礼儀になることもある。幸い、祖母は河田裕亮と話し込んでいて、紀康の姿には気づいていなかった。


救急室のドアが開き、医師が出てきた。皆が一斉に駆け寄る。


「先生、容態はいかがですか?」


梨紗が慌てて尋ねる。


「今のところ大きな異常は見当たりませんが、念のため斎藤主任に詳しく診てもらったほうがいいでしょう。主任は今緊急手術中ですので、終わり次第こちらに来ます。とりあえず入院して点滴をしながら数日様子を見ましょう。」


権威ある主任医師の診察をまだ受けていないため、梨紗と祖母は不安げなままだった。


「斎藤主任なんですね?」


梨紗が念を押す。


「はい、そうです」と医師はうなずいて去った。


早川思織がすぐに声をかける。


「梨紗、主任がすぐ来ないってことは、急を要する状態じゃないってことだよ。落ち着いて」


祖母も無理に明るくふるまいながら梨紗の手をたたいた。


「そうだね、お祖父ちゃんは元気だもの。まだまだ私と一緒に過ごすって約束してるんだから」


梨紗は不安を押し殺し、笑顔を作った。


「うん、分かってる。私と河田君は入院に必要なものを取ってくるね」


早川思織も頷いた。

梨紗と河田裕亮が病院のロビーに着いたとき、河田裕亮が急にお腹を押さえた。


「ごめん、ちょっと五分待ってて」


そう言うと、急いでトイレに向かった。


梨紗が一人でロビーにいると、聞きたくもない嫌な声が耳に入ってきた。


「梨紗?どうしてここに?」


那須太郎がわざとらしい心配顔で近づいてきた。

梨紗は完全に無視し、視線すら向けない。

だが、那須太郎はおかまいなしに言葉を続け、どこか責めるような口調だ。


「まさか紀康が斎藤主任を呼んでくれたのを知って、わざわざ邪魔しに来たんじゃないだろうな?斎藤主任の予約がどれだけ大変か分かってる?文句があるなら家でやってくれ、ここで恥をさらすな!」


梨紗は勢いよく顔を上げ、鋭い目で睨みつけた。


「斎藤主任を?」


那須太郎は彼女の問いかけを無視し、さらに上から目線で説教を続ける。


「君たちの結婚記念日の夜のこと、聞いてるぞ。紀康が君と過ごさなかったのは、若菜の誕生日だったからだ。あの二人は元々深い絆があるんだ。どれだけ君が騒いでも、紀康の心は動かない。父の忠告だ、もう手放してやりなさい。君自身のためにも、紀康のためにも、そのほうがいい」


梨紗は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むほどだった。


「斎藤主任、なの?」


彼女はもう一度冷たい声で問い詰める。


「娘なんだから、父として言ってるんだ……」

「もし私が君なら、不幸な結婚から自分で身を引くよ。安心しなさい、紀康は君に不自由はさせないって約束してくれている。もう、諦めなさい」


梨紗はこれ以上聞いても無駄だと悟り、背を向けようとした。しかし、そのとき那須理恵が那須家の祖母の腕を取りながらこちらに近づいてきた。

那須理恵は作り笑いで梨紗を見つめた。


「あら、梨紗。すっかり大人っぽくなって、ますます綺麗になったわね」


梨紗の視線が、顔色もよく足取りもしっかりした那須家の祖母をとらえる。これのどこが那須太郎の言う「具合が悪い」状態なのか。斎藤主任を呼ぶほどの緊急性など、どこにも感じられない。ふと、今も祖父が救急室で状況が分からず苦しんでいるのを思い出し、怒りが一気に込み上げた。


那須太郎はすぐに顔をしかめて声を荒げた。


「挨拶しなさい!」


梨紗の目には、憎しみが溢れそうだった。


「愛人に挨拶?」


「なんて口のきき方だ!」


那須太郎は一瞬で怒りをあらわにし、声を荒げた。


「基本的な礼儀もないのか?全部お前の早死にした母親のせいだ!」

「那須太郎!」


梨紗の声は鋭く、怒りに震えていた。


「母がどうして亡くなったのか、忘れたの?」


那須太郎はまったく悪びれる様子もなく、うんざりしたように手を振った。


「あれは彼女の心が狭かったからさ。」

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