検査室の中では、紀康が早乙女若菜の家族と一緒に斎藤主任と病状について話し合っていた。梨紗は扉を勢いよく開けて、中に飛び込むと、斎藤主任の手首を掴んだ。
「斎藤主任、私のおじいちゃんが今、そちらの救急で運ばれてきました。すぐに診てください!」
「病院には他にも医者がいるだろう。まずはそっちに任せてくれ。こっちにも患者がいるのが見えないのか?」
「おじいちゃんはすでに他の先生に診てもらいました。でも、主任に確認してほしいんです!」
「あの新しく運ばれた患者のことか?心配しなくていい。こっちが終わったらすぐ見に行く。」
「どうか、先におじいちゃんをお願いします!」
河田裕亮は一瞬で状況を理解した――紀康が早乙女若菜の祖母のために呼んだ専門医が、梨紗のおじいちゃんにも必要な斎藤主任だったのだ。
なんて皮肉なことだ。
紀康は梨紗の服の襟を強く掴み、無理やり彼女を脇へ引き寄せ、冷たい声で言った。
「今、医者が忙しいのが見えないのか?これ以上騒げば、困るのはお前のおじいちゃんだぞ。」
梨紗は顔を上げ、これまで紀康が見たこともないほど冷たい憎しみをその瞳に宿していた。
まるで彼を睨みつけ、今にも食い殺さんばかりの勢いだった。
紀康は思わずたじろいだ。
梨紗がこんな目を自分に向けるなんて、初めてだった。
斎藤主任に、早乙女若菜の祖母を先に診てもらったからだろうか。
「斎藤主任が言ったんだ。お前のおじいちゃんは今すぐじゃなくても大丈夫だって。」
梨紗はしばらく紀康を見据えたまま、やがて視線を斎藤主任に向けた。
「もし、おじいちゃんに何かあったら、責任取っていただけるんですね。」
「他の先生からおじいちゃんの状態は聞いている。命に関わることはないよ。」
「責任、取れるんですね?」
梨紗は一歩も引かない。
斎藤主任はその強い態度に苛立ちながらも、紀康の手前もあり、適当に答えた。
「分かった、私が責任を持つ。」
「その言葉、忘れないでください。」
梨紗はそれ以上何も言わず、きびすを返して部屋を出た。
彼女は廊下の冷たい壁にもたれ、背筋を伸ばしたまま、じっと黙り込んでいた。
河田裕亮はそばで見守ることしかできず、ただ静かに立っていた。
時が、じりじりと流れていく。検査室の扉は閉ざされたままだ。
およそ三十分後、先ほどおじいちゃんを診ていた医者が慌てた様子で駆け込んできて、検査室のドアを激しくノックした。
「斎藤主任!至急です!救急の患者が急変しました!」
梨紗の顔色が一瞬で変わる。
「おじいちゃん?何があったんですか?」
「急変です。私では対応できません。すぐに斎藤主任にお願いしたい!」
怒りのこもった梨紗の視線が、ちょうど出てきた紀康に突き刺さる。
紀康は険しい表情で言った。
「斎藤主任、こちらはもう大丈夫です。向こうに行ってください。」
「分かった、すぐに行く。」
斎藤主任は返事しつつ、明らかに動揺し、額に汗をにじませていた。
梨紗のそばを通り過ぎる時、凍り付くような声が彼女の口から洩れた。
「斎藤主任、ご自分の口で言いましたね。おじいちゃんに何かあったら、責任を取ると。」
斎藤主任はその場で足を止め、梨紗を見ることもできず、足早に救急室へ向かった。
梨紗と河田裕亮もすぐに後を追う。
紀康はその場に立ち尽くし、顔を曇らせていた。
早乙女若菜がそっと彼の腕に手をかけ、優しく声をかける。
「心配しないで。斎藤主任は腕のいい先生だから、きっと大丈夫。」
早乙女家の家族も、その言葉に少し安堵の表情を見せた。若菜の言葉は彼らにとって心強かった。
梨紗の祖母は、梨紗が戻ってきたのを見て、助けを求めるように彼女の手をしっかり握りしめ、震える声で言った。
「梨紗、どうしよう。おじいちゃんが急に……私は何も分からないし……もしものことがあったら、どうすれば……」
「おばあちゃん、大丈夫!斎藤主任がもう診てくれてるから、きっと助かるよ!」
「それだけじゃないのよ。」祖母は涙をぬぐいながら続けた。
「おじいちゃんの担当の先生が、斎藤主任がなかなか来ないからって、清和先生も呼んでくれたの。」
「叔父さんが?」梨紗は驚いた。
「そう、清和雅彦先生。あの人も名医なんですって。」
「うん、斎藤主任に負けないくらい、腕のいい先生だよ。」
梨紗の心に、わずかな希望が灯る。今まで斎藤主任ばかり頼りにしていたことを思い出し、清和雅彦の存在を忘れていた自分を悔やんだ。
祖母と手を握り合いながら、二人は不安な気持ちで救急室の前に立ち尽くしていた。
突然、一人の医師が足早に出てきて、険しい表情で言った。
「ご家族の方!ご容体が非常に危険です。こちらが危篤の同意書です。ご署名をお願いします!」
「危篤の同意書」という言葉が、雷のように祖母と梨紗に落ちた。祖母は目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちそうになるのを河田裕亮が支えた。
「……おじいちゃんは、もう……だめなの?」祖母は涙に声を詰まらせる。
梨紗の目にも涙があふれそうになりながら、必死でこらえて言った。
「おばあちゃん、怖がらないで!危篤の同意書にサインするからといって、おじいちゃんが必ず……そうなるわけじゃないよ。先生たちを信じて、おじいちゃんはきっと乗り越えてくれる!」
自分でも信じ切れないほど、声が震えていた。
医師は急かすように言った。「ご家族のどなたが署名しますか?急いでください!」
梨紗は医師の前に歩み出て、声を必死に抑えながら尋ねる。
「先生、おじいちゃんの状態を、詳しく教えていただけませんか?」
「今は一刻を争うので、まず書類にサインをお願いします!」
その薄い紙が、梨紗には重くのしかかった。深く息を吸い込み、彼女の目は鋭く、そして強くなった。
「私はサインできません。斎藤主任が責任を持つと約束しました。今こそ、彼に責任を取ってもらいます。」
医師は一瞬戸惑ったが、梨紗の真剣な目に何も言えず、同意書を持って処置室へ戻っていった。
祖母はその言葉に少し我に返り、梨紗の手を握りしめた。
「梨紗?今、何て?斎藤主任が……責任を?」