梨紗は、さっきの騒動を祖母に伝えることはなかった。
今の祖母は心配で気が気でない様子だ。もし、あんな汚らわしい出来事まで知ってしまえば、体が持たないだろう。
万が一、祖父と祖母を同時に失うことになったら……彼女は考えるだけで怖くなった。
「梨紗?」祖母が不思議そうにエレベーターの方を見て、
「どうしてあの人たちがここに?」
その時、救急室のドアが開き、清和雅彦が姿を現した。
「おじさん、おじいちゃんはどうなったの?」
梨紗はすぐに駆け寄った。
清和はマスクを外し、手術直後の疲れを滲ませる声で言った。
「ひとまず峠は越えたよ。でも、もうこれ以上のストレスには耐えられないはずだ。しばらくは安静が必要だから、気をつけてあげてほしい。」
梨紗は祖母の方を見て、目には嬉しさと安堵の涙が浮かんだ。
「おばあちゃん、聞きました?おじいちゃん大丈夫だって!おじいちゃん、助かったよ!」
祖母は清和の手をしっかり握り、涙声で言った。
「清和先生、本当に…どう感謝したらいいか…」
「私の仕事ですから。」
清和は淡々と答えた。
続いて、斎藤主任が足早に出てきた。できるだけその場から離れようとしている様子だ。梨紗はすかさずその前に立ちはだかった。
「斎藤主任、きちんと説明していただけますよね?」
斎藤主任は避けようとしたが、梨紗は一歩も引かない。
彼はマスクを外し、不機嫌そうに言った。
「命は助かったんだ。もういいだろう?」
「おじいちゃんはもともと容態が不安定だったのに、なぜ放っておいたんですか!責任を取っていただきます!」
「好きにしろ!」
斎藤主任はそう言い捨てて、足早にその場を離れた。
清和はその場に残り、斎藤主任の背中に視線を送ったあと、再び梨紗を見つめた。梨紗は深く息を吸い、清和の前で深々と頭を下げた。
「おじさん、本当にありがとうございました。」
今の清和は、手術着姿のまま、普段の気さくな雰囲気とは違い、頼もしさがにじみ出ていた。
「大したことじゃないよ。」
彼は軽く手を振って、
「おじいちゃんの顔を見てきなさい。」
梨紗は力強くうなずいた。
清和が去っていくのを見送りながら、祖母はその背中を見つめて小さくつぶやいた。
「この子…違うのね。」
梨紗と祖母は急いでベッドのそばに駆け寄った。
「おじいちゃん!」
祖父は苦しそうに微笑み、
「心配かけて…すまなかったな。」
「もう大丈夫!おじいちゃんが無事ならそれでいいの!」
祖母は涙をぬぐいながら、他の医師から聞いた話を思い出していた。もし清和が駆けつけてくれなければ、夫は助からなかったかもしれない。斎藤主任への怒りと清和への感謝が入り混じる。
「もう平気だ。だいぶ良くなった。」
祖父は息を整えながら、梨紗に目を向けた。
「ここに…ずっといたんだろう?会社も忙しいだろうし、私のことはおばあちゃんや家政婦さんに任せて、仕事に戻りなさい。」
梨紗は、祖父が会社のことを一番気にしているのを知っている。祖母の方を見ると、祖母はうなずいて安心させてくれた。
「はい、おじいちゃん、ゆっくり休んでください。何かあればすぐにおばあちゃんから連絡してもらいます。」
梨紗は不安を抑え、明るく言った。
「元気になったら、おばあちゃんと一緒に旅行に行きましょうね!」
「ああ、そうだな。行っておいで。」
梨紗は祖母にいくつか言い残し、病室を後にした。
病院の正面玄関を出たところで、ひとつの影が行く手をふさいだ。
紀康だった。
梨紗は彼を無視し、そのまま横を通り過ぎようとした。
「梨紗。」
紀康が呼び止める。
彼女は歩みを止めない。
「知らなかったんだ、一ノ瀬さんが倒れたこと。」
紀康の声が背後から聞こえてきた。どこか言い訳めいた響きがあった。
梨紗の足が止まり、周囲の空気が一気に冷たくなる。「一ノ瀬さん」というその呼び方は、彼が梨紗と出会ったときからずっと変わっていない。結婚して八年経っても、彼にとって梨紗の家族は、あくまで他人のままだった。
紀康は彼女の前に立ちふさがった。
「斎藤主任からは、急を要する話ではないと聞かされていた。それで気にしなかった。悪かった。」
梨紗は手を強く握りしめ、爪が掌に食い込むほどだった。唇を固く結ぶ。まただ——
彼にとって、彼女のすべてはいつも取るに足らないものだった。
「謝罪は聞きました。」彼女はようやく口を開き、冷え切った声で言った。「でも、受け入れません。」
「梨紗!」紀康の声が少し強くなる。「俺はめったに謝らない。傷つけるつもりはなかった。」
「宗一郎さんに責められるのが心配なら、安心してください。私は告げ口なんてしません。あなたもよく分かっているでしょう。」
梨紗は彼の本音を見抜いていた。
紀康は黙り込む。確かに、彼女が家のことで告げ口をしたことは一度もない。
「斎藤主任に悪意はなかったし、医者の誤診は仕方ない。それに、おじいちゃんは無事だったし、清和さんが助けてくれた。これで終わりにしよう。」
彼は事態を収めようとした。
梨紗は鋭い視線で紀康を見据えた。そのまなざしは刃のように鋭く、紀康は思わず身を固くした。彼女は本当に、以前とは違ってしまった。
「神崎さん、わざわざここで三十分も待っていたのは、斎藤主任をかばうため?もういいと言ったでしょ。コネで人を動かしても、私は何も言わない。でも、斎藤主任の怠慢でおじいちゃんが危険な目にあったのは事実。私は必ず責任を追及します。もし邪魔するなら……」
「徹底的に戦います!」
そう言い捨てて、梨紗は踵を返した。
紀康は追いすがる。「そこまで騒いだら、おじいちゃんの体がもたないぞ?」
「俺はちゃんと謝ったんだ、これ以上どうしろっていうんだ!」
苛立ちを抑えきれない声。
またその台詞——
梨紗はぴたりと足を止め、冷気が漂う。
「謝れば済むことですか?神崎さん、明日あなたを刺して、明後日『ごめん、まだ愛してる』って言ったら、許してくれますか?」
「それとこれとは違うだろ!治療費は全て俺が負担するし、斎藤主任にも直接謝らせる。それで済ませよう。」
紀康はいつものやり方で解決しようとした。
梨紗は冷たい眼差しを返し、何も言わずにその場を去った。
紀康は、群衆に消えていく梨紗の背中を見つめ、深く眉をひそめた。
これまで同じようなことが起きるたび、いつもこの方法で収まっていた。
なのに、なぜ今回は通じないのか——