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第36話 彼の謝罪


梨紗は、さっきの騒動を祖母に伝えることはなかった。


今の祖母は心配で気が気でない様子だ。もし、あんな汚らわしい出来事まで知ってしまえば、体が持たないだろう。

万が一、祖父と祖母を同時に失うことになったら……彼女は考えるだけで怖くなった。


「梨紗?」祖母が不思議そうにエレベーターの方を見て、


「どうしてあの人たちがここに?」


その時、救急室のドアが開き、清和雅彦が姿を現した。


「おじさん、おじいちゃんはどうなったの?」


梨紗はすぐに駆け寄った。

清和はマスクを外し、手術直後の疲れを滲ませる声で言った。


「ひとまず峠は越えたよ。でも、もうこれ以上のストレスには耐えられないはずだ。しばらくは安静が必要だから、気をつけてあげてほしい。」


梨紗は祖母の方を見て、目には嬉しさと安堵の涙が浮かんだ。


「おばあちゃん、聞きました?おじいちゃん大丈夫だって!おじいちゃん、助かったよ!」


祖母は清和の手をしっかり握り、涙声で言った。


「清和先生、本当に…どう感謝したらいいか…」

「私の仕事ですから。」


清和は淡々と答えた。


続いて、斎藤主任が足早に出てきた。できるだけその場から離れようとしている様子だ。梨紗はすかさずその前に立ちはだかった。


「斎藤主任、きちんと説明していただけますよね?」


斎藤主任は避けようとしたが、梨紗は一歩も引かない。

彼はマスクを外し、不機嫌そうに言った。


「命は助かったんだ。もういいだろう?」

「おじいちゃんはもともと容態が不安定だったのに、なぜ放っておいたんですか!責任を取っていただきます!」

「好きにしろ!」


斎藤主任はそう言い捨てて、足早にその場を離れた。

清和はその場に残り、斎藤主任の背中に視線を送ったあと、再び梨紗を見つめた。梨紗は深く息を吸い、清和の前で深々と頭を下げた。


「おじさん、本当にありがとうございました。」


今の清和は、手術着姿のまま、普段の気さくな雰囲気とは違い、頼もしさがにじみ出ていた。

「大したことじゃないよ。」


彼は軽く手を振って、


「おじいちゃんの顔を見てきなさい。」


梨紗は力強くうなずいた。

清和が去っていくのを見送りながら、祖母はその背中を見つめて小さくつぶやいた。


「この子…違うのね。」


梨紗と祖母は急いでベッドのそばに駆け寄った。


「おじいちゃん!」


祖父は苦しそうに微笑み、


「心配かけて…すまなかったな。」

「もう大丈夫!おじいちゃんが無事ならそれでいいの!」


祖母は涙をぬぐいながら、他の医師から聞いた話を思い出していた。もし清和が駆けつけてくれなければ、夫は助からなかったかもしれない。斎藤主任への怒りと清和への感謝が入り混じる。


「もう平気だ。だいぶ良くなった。」


祖父は息を整えながら、梨紗に目を向けた。


「ここに…ずっといたんだろう?会社も忙しいだろうし、私のことはおばあちゃんや家政婦さんに任せて、仕事に戻りなさい。」


梨紗は、祖父が会社のことを一番気にしているのを知っている。祖母の方を見ると、祖母はうなずいて安心させてくれた。


「はい、おじいちゃん、ゆっくり休んでください。何かあればすぐにおばあちゃんから連絡してもらいます。」

梨紗は不安を抑え、明るく言った。

「元気になったら、おばあちゃんと一緒に旅行に行きましょうね!」

「ああ、そうだな。行っておいで。」


梨紗は祖母にいくつか言い残し、病室を後にした。


病院の正面玄関を出たところで、ひとつの影が行く手をふさいだ。

紀康だった。

梨紗は彼を無視し、そのまま横を通り過ぎようとした。


「梨紗。」


紀康が呼び止める。

彼女は歩みを止めない。


「知らなかったんだ、一ノ瀬さんが倒れたこと。」


紀康の声が背後から聞こえてきた。どこか言い訳めいた響きがあった。


梨紗の足が止まり、周囲の空気が一気に冷たくなる。「一ノ瀬さん」というその呼び方は、彼が梨紗と出会ったときからずっと変わっていない。結婚して八年経っても、彼にとって梨紗の家族は、あくまで他人のままだった。


紀康は彼女の前に立ちふさがった。


「斎藤主任からは、急を要する話ではないと聞かされていた。それで気にしなかった。悪かった。」


梨紗は手を強く握りしめ、爪が掌に食い込むほどだった。唇を固く結ぶ。まただ——

彼にとって、彼女のすべてはいつも取るに足らないものだった。


「謝罪は聞きました。」彼女はようやく口を開き、冷え切った声で言った。「でも、受け入れません。」


「梨紗!」紀康の声が少し強くなる。「俺はめったに謝らない。傷つけるつもりはなかった。」


「宗一郎さんに責められるのが心配なら、安心してください。私は告げ口なんてしません。あなたもよく分かっているでしょう。」


梨紗は彼の本音を見抜いていた。

紀康は黙り込む。確かに、彼女が家のことで告げ口をしたことは一度もない。


「斎藤主任に悪意はなかったし、医者の誤診は仕方ない。それに、おじいちゃんは無事だったし、清和さんが助けてくれた。これで終わりにしよう。」


彼は事態を収めようとした。

梨紗は鋭い視線で紀康を見据えた。そのまなざしは刃のように鋭く、紀康は思わず身を固くした。彼女は本当に、以前とは違ってしまった。


「神崎さん、わざわざここで三十分も待っていたのは、斎藤主任をかばうため?もういいと言ったでしょ。コネで人を動かしても、私は何も言わない。でも、斎藤主任の怠慢でおじいちゃんが危険な目にあったのは事実。私は必ず責任を追及します。もし邪魔するなら……」


「徹底的に戦います!」


そう言い捨てて、梨紗は踵を返した。


紀康は追いすがる。「そこまで騒いだら、おじいちゃんの体がもたないぞ?」

「俺はちゃんと謝ったんだ、これ以上どうしろっていうんだ!」


苛立ちを抑えきれない声。


またその台詞——

梨紗はぴたりと足を止め、冷気が漂う。


「謝れば済むことですか?神崎さん、明日あなたを刺して、明後日『ごめん、まだ愛してる』って言ったら、許してくれますか?」

「それとこれとは違うだろ!治療費は全て俺が負担するし、斎藤主任にも直接謝らせる。それで済ませよう。」


紀康はいつものやり方で解決しようとした。


梨紗は冷たい眼差しを返し、何も言わずにその場を去った。


紀康は、群衆に消えていく梨紗の背中を見つめ、深く眉をひそめた。

これまで同じようなことが起きるたび、いつもこの方法で収まっていた。

なのに、なぜ今回は通じないのか——

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