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第37話 紀康の切り札


梨紗と河田は、いくつかの有力な投資家と面会していた。

その中の一人がこんな提案をしてきた。


「もっと業界のハイエンドなパーティーに顔を出すといいですよ。河田さんが帰国したという噂が広まれば、自然と向こうから声がかかるはずです。」


梨紗はこの方法に納得し、わざわざ一軒一軒訪ね歩く手間も省けると考え、採用することにした。


慌ただしい一日を終えて自宅に戻ると、携帯が鳴った。息子の拓海からだった。


「ママ!会いたいよ!こっちに来てくれない?」


寂しげな声には甘えが滲んでいて、前回の気まずさはもうすっかり忘れているようだった。母親としての責任を梨紗は避けるつもりはなかったが、条件を付けた。


「もちろん会いに行くけど、明日は一緒に病院に行くのよ。」

「うん、わかった!」


素直な返事に梨紗は微笑み、簡単に支度をしてタクシーを呼び、神崎家の本邸へと向かった。


道中、また電話が鳴る。今度は祖父・一ノ瀬真治からで、病み上がりのかすれた声だった。


「梨紗、紀康が……会社への投資について何か言ってたか?」


このタイミングで投資の話とは、どう考えても斎藤主任の件を穏便に済ませてほしいという意図が見え見えだった。


斎藤主任は紀康の紹介で入った人物で、もし問題が大きくなれば裏側まで明るみに出てしまう。

紀康自身はどうでもいいかもしれないが、早乙女若菜の評判は気にしているはずだ。

若菜に愛人の噂が立てば、女優人生は終わりだろう。


ただ、紀康は梨紗商事が今どれほど追い込まれているか、まるで分かっていないのだろう。


「断りました。会社はもうすぐ方向転換しますし、これからは彼に頼らなくてもやっていけますから。」


海外で名の知れた脚本家である河田裕が協力していることを知り、おじいさんもひと安心した様子だった。


「そうか、会社のことは心配せず、しっかり療養してくれればいいの。おじいさんとおばあさんには、まだまだ長生きしてもらわなきゃ。」

「そうかそうか。」


珍しく、おじいさんの声にも安堵の色が混じっていた。

家族の話をして電話を切ると、すぐに仕事用のもう一台が鳴った。

出てみると、聞き慣れたはずなのにどこかよそよそしい声がした。


「暁美帆さん、こんにちは。紀康です。お時間いただけませんか?」


表示を確認すると、やはり紀康の個人番号ではなかった。梨紗は無意識に声を低くする。


「神崎社長?どんなご用件でしょうか。」

「ぜひ一度、お話ししたいのです。」


梨紗は微かに皮肉な笑みを浮かべた。八年も連れ添った彼の声は、一瞬で聞き分けられるのに、彼は目の前の妻の声さえ分からない。

もう隠す必要もないと思い、元の声に戻して言う。


「早乙女若菜さんを新作の主演に、とお考えですか?申し訳ありませんが、彼女には向いていません。」

「できれば直接お話しできればと。」


紀康の声には、これまで梨紗が感じたことのないような、丁寧な物腰があった。早乙女若菜のためなら、ここまで頭を下げるのかと、梨紗は内心苦笑した。


「お会いする必要はありません。」

「条件についてはご相談できますよ。」


言外に「お金はいくらでも出す」とはっきり示している。

しかし、梨紗にとって金銭で譲れる問題ではない。


「すみませんが、私の考えは変わりません。」


そう告げて、電話を切った。

ほぼ同時に小田監督から電話が入る。


「美帆!神崎社長から直接電話があったのに、よくもあっさり断ったな。あの人を怒らせたら、うちのプロジェクトは終わりだぞ!」

「大丈夫ですよ。」


梨紗は自信を持って答える。


「何が大丈夫なんだ?この業界に長いんだから、裏事情も分かってるだろう?せっかくの脚本が、お蔵入りになったらもったいないぞ……」

「大丈夫です。」


梨紗は繰り返した。

小田監督は思いがけない頑固さに、焦ったように声を荒げる。


「今が一番大事な時なんだ!資金も流通も神崎社長頼みなのに、ここで意地張ってどうする!お願いだから、これくらいで敵を作らないでくれよ!」


「これくらいのことじゃありません。早乙女若菜に演じさせるなんて、私の脚本を台無しにするだけです。」


小田監督は思わず息を呑んだ。早乙女若菜のことをここまで言い切る人間は、暁美帆以外いない。


「……もう何も言うまい。じゃあ、またな。」


電話が切れると、梨紗はすでに心の中で次の主演候補を決めていた。携帯を手に取り、その人にメッセージを送り、会う約束を取り付けた。




神崎家本邸。

梨紗は心の準備をしながら玄関をくぐったが、拓海が笑顔で飛びついてきたとき、家の中に紀康の気配はなかった。


「ママ、パパと別れないでほしいな。」


拓海は不安げに見上げてくる。

梨紗は前回の彼の迷いのない選択を思い出し、何も答えなかった。

紀康がいないことに小さく安堵しつつも、今ごろまた早乙女若菜のもとにいるのだろうと思った。


「ご飯は食べたの?」話題を変える。


「うん、もう食べた!ママ、一緒にレゴやろうよ!」拓海は手を引っ張ってリビングへ。


リビングの床にはレゴのパーツが散らかっていて、拓海はすでに立派な土台を組み上げていた。


「ママ、こうやるんだよ……」


梨紗は言われるままパーツを手に取る。しばらくすると、拓海がふと見て驚いた。目の前には、あっという間に高くしっかりとしたモデルが出来上がっていたのだ。


「ママ、すごい!なんでそんなに早いの?」


「そんなに早いかしら?」梨紗は淡々と返す。


「早いよ!若菜おばさんより全然早い!」


無邪気に口に出したものの、すぐに母の表情をうかがう拓海。

梨紗が特に気にしていない様子だと分かると、ほっとした顔をした。


時間も遅くなり、梨紗は執事に拓海を風呂に連れて行くよう頼み、自分も客用バスルームへ。

主寝室には入らなかったが、ドレッサーにうっすらと埃が積もっているのが目に留まる。

以前、家政婦から「片付けはご自分で」と言われたことを思い出し、もうこの家を出るのだと改めて感じた。


寝る前に拓海に絵本を読み聞かせ、時計を見るともう十一時近い。

紀康はまだ帰ってくる気配はなかった。

かつては梨紗が家にいても夜遅くまで帰らないことが普通だったが、自分が出て行った今、拓海もこうやって夜遅くまで一人で待っているのだろうか。


梨紗はもともと早寝の習慣がない。

水を飲みに階下へ降りると、広いリビングは静まり返り、家の者はすでに休んでいる。

と、玄関から鍵の音と重い足音が聞こえた。


振り向くと、紀康が酒臭を漂わせ、ふらつきながら入ってくるのが見えた。

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