紀康は、梨紗が別荘に現れてもまったく驚いた様子はなかった。
ただ一瞥しただけで、自分の部屋へと真っすぐ歩いていった。
部屋に入ると、扉はしっかりと閉ざされ、中からは何の音も聞こえてこない。
この八年にも及ぶ冷たい無視に、梨紗はもう慣れてしまっていた。
彼女は水を一杯注ぎ、ドレッサーの前を通り過ぎようとしたとき、ふと足を止めた。
鏡の中には、かつて彼のために丁寧に選んだワンピースを着た自分の姿が映っている。あの頃は、彼の視線を引きたくて、わざわざこの服を着て彼の前を歩いたものだ。
けれど、彼は何の反応も見せなかった。
今、再びこのドレスを身にまとっても、結果は同じ。
愛されていなければ、どんなに着飾っても、彼の目には自分は透明な存在にすぎない。
翌朝、梨紗が部屋を出ると、紀康はすでにリビングにいた。
彼女の足音が聞こえても、振り向きもしない。
梨紗は静かにそのまま出ていこうとしたが、突然、紀康が振り返り、冷たい声で言った。
「どうして投資を断ったんだ?」
梨紗の唇に皮肉な笑みが浮かぶ。
「紀康、もうすぐ業態転換するの。こういうこと、全然知らなかったでしょう?」
その声には、見透かしたような冷たさがあった。
紀康の表情は変わらず、周囲の空気が一層張りつめる。
「転換?ずっと転換ばかりしてるんじゃないのか。」
言葉の裏には――一度だって成功したことがあるのか?
――という皮肉が透けて見える。
彼は、梨紗の祖父の能力を暗に否定しているのだ。
だが、会社が今の状況まで追い込まれた原因の一つは、紀康自身にある。
彼が形だけの投資をしたことで、業界内に神崎家のスタンスが伝わり、結果として多くの人々が梨紗の祖父の会社を遠ざけ、冷遇するようになった。
どんなに祖父が優秀でも、業界全体の冷たい視線には太刀打ちできなかった。
「斎藤主任のことを気にしているのは分かるけど、無駄なことはやめて。絶対に諦めないから。」
「梨紗!」紀康の我慢も限界に達し、
「どうして父上まで巻き込んで、落ち着かせてくれないんだ?」
似たようなことはこれまでにもあった。
梨紗は何度も説明しようとしたが、彼は一度も信じてくれなかった。
何度も説明するうちに、心もすっかり冷え切り、もう言葉を尽くす気にもなれなかった。
彼女はもう彼を見ず、歩き出そうとする。
しかし、紀康は突然彼女の手首を強く掴んだ。
「一体どうしたいんだ?父に知られ、俺に謝らせたいのか?それとも、もっと他に望みがあるのか?俺が早乙女若菜を放って、全部お前に向き合えって言うのか?」
そのひと言ひと言が、梨紗の心に鋭く突き刺さる。
彼を強く見つめ、心に刻みつけたいような、あるいは完全に心から切り離したいような、そんな複雑な思いがあふれる。
しばらくして、ようやく視線を外し、低くかすれた声で言った。
「そういえば、前から話したいことがあったけど、ずっと時間が取れなかったの。り、……」
その時、神崎拓海が目をこすりながら部屋から走ってきた。
「ママ!朝ごはん作ってくれた?おなかすいたよ!」
寝ぼけた顔がかわいらしい。
以前なら、梨紗はすぐに駆け寄って抱きしめていたはずだ。
けれど今は、どこか冷めた気持ちで、少し疲れたような距離感があった。
「朝ごはんは家政婦さんが用意してるわ。ママは用事があるの。」
淡々とした口調。
「ママ、何の用事?今日はママに学校まで送ってほしいな。」拓海は手を取ろうとする。
「ママは仕事があるの。」
「でも、仕事は九時過ぎからでしょ?」拓海は不思議そうだ。
「私の仕事は、朝から始まってるのよ。」梨紗は静かに答える。
拓海はなんとなく納得したような、していないような表情を浮かべた。
梨紗は、子どもの前で離婚の話をするつもりはない。紀康を真っすぐ見て、率直に言う。
「いつなら時間が取れる?話がしたいの。」
紀康の目は冷たく、「斎藤主任のこと以外、話すことはない。」
そう言い残し、彼は背を向けて去っていった。その背中は、決意に満ちているようだった。
梨紗の表情が少し曇る。
拓海は両親の間に漂う冷たい空気を敏感に感じ取ったが、深く考えることはなく、ただ梨紗の手を握ってせがんだ。
「ママ、学校まで送ってよ!お願い!」
拓海も気づいている。最近のママは、以前より綺麗になったし、元気にも見える。だから、友達にも自慢したいのだ。
梨紗は彼を一瞥し、少しだけ妥協した。
「朝ごはん、外で食べる?」
「うん!」拓海の目が輝く。
「じゃあ、行きましょう。」
梨紗は拓海の手を引いて家を出た。
家政婦が慌てて追いかけてきた。
「奥様、朝食の用意はできておりますが……」
「結構です。拓海と一緒に出かけます。」
梨紗はきっぱりと言い、息子の手を引いて玄関を出ていった。
家政婦はため息をつくしかなかった。
紀康が再び階下に降りてきたとき、家政婦は恭しく報告した。
「ご主人様、奥様は坊ちゃまと一緒に外で朝食を召し上がるそうです。」
「好きにさせておけ。」
紀康の声には何の感情もなかった。
家政婦は静かに頭を下げた。
朝食を食べ終えると、梨紗は拓海を学校まで送った。校門の前で彼を見送りながら、念を押す。
「朝は時間がなくておじいちゃんのところには行けないけど、夜は必ず迎えに行くから、一緒に行こうね。」
「わかったよ、ママ!」
拓海は手を振って校舎に駆け込んでいった。
そばには同じクラスの友達がいて、拓海の方を何度も振り返りながら、興奮気味に小声で話しかけていた。
「神崎拓海くん!君のお母さん、すごくきれいだね!」
拓海はすぐに得意気になって、「でしょ!僕、もう一人お母さんがいるんだよ。どっちもすごくきれいなんだ!」
「えっ、本当に?いいなあ!君のお父さん、奥さんが二人いるの?」
「うん、そうだよ!僕のお父さんは奥さんが二人いるんだ!」拓海は誇らしげに言う。
「わあ!君のお父さん、すごいね!」
校門の外でその会話を聞いた梨紗の顔が、一瞬固まる。
すぐに、冬の陽射しのような淡く冷たい微笑みを浮かべて、背を向けて歩き去った。
一日中、梨紗は新しい会社のことで忙しく動き回った。夜には業界の重要なパーティーも控えている。その前に、どうしても拓海を連れておじいちゃんのお見舞いに行かなければならなかった。
時間ぎりぎりで学校に迎えに行くと、生徒たちが列を作って次々と出てくる。
背の高い拓海はいつもなら最後の方にいるはずなのに、クラスの子が全員出てきても、彼の姿は見当たらなかった。
梨紗は不安になり、担任に駆け寄る。
「先生、こんにちは。神崎拓海はどこにいますか?まだ見かけていないのですが。」
「あ、拓海くんのお母さん?神崎様が拓海くんを迎えに来られましたよ。何も聞いていませんか?」
迎えに来た?
梨紗はお礼を言い、胸がざわついたまま紀康に電話をかけた。
一度、二度、三度……どれも応答がない。
仕方なく、拓海のキッズ携帯にかけてみる。
今度はつながった。
「ママ?」
拓海の声が聞こえ、背景にはにぎやかな笑い声と音楽が流れている。
「拓海、どこにいるの?」
梨紗はできるだけ落ち着いた声で尋ねる。
「僕……あ、ママ!もう切るね、遊びに行くから!」
拓海は興奮した様子で電話を切ろうとする。
切れる直前、梨紗の耳に女性の明るい声がはっきりと響いた。
「若菜、これが紀康さんのお子さんでしょ?本当にかわいいわね!」