その声は、須家の祖母のものだった。
紀康は神崎拓海を連れて早乙女家の食事会に行ったらしい。
梨紗は考えるまでもなく、拓海が祖父のお見舞いの約束をすっかり忘れていることに気づいた。
早乙女家の会場がどこか、梨紗は知らなかったし、父と息子に連絡を取ることもしなかった。
彼女は一人で手土産を持ち、祖父を見舞いに行った。
しばらく待っても、いつもの小さな姿は現れない。二人の老人は何も聞かず、梨紗のほうから説明をした。
「拓海は今夜、急に用事ができたみたいで……本当は一緒に来るつもりだったんです。たぶん明日は時間があると思うので、また連れてきますね。」
二人の老人は拓海を本当に大切にしている。娘を早くに亡くし、孫娘が残した二人の子どもは、彼らにとって何よりも大切な存在だ。
紀康が来るかどうかは、もはや気にしていない。
これまでも須家の祖母や一ノ瀬真治が体調を崩しても、紀康の姿を見ることはなかった。何か特別な日でさえ、一度も顔を出したことがないのだ。
須家の祖母と一ノ瀬真治は気にする様子もなく、逆に梨紗を気遣った。
「いいのよ。ここは病院だし、来ない方がいいわ。菌も多いし、子どもは免疫が弱いから。退院して家に戻ったら、ちょうど週末だし、遊びに来てもらいましょう。」
梨紗は小さく「はい」と頷いた。
彼女はスマートフォンを取り出し、既にまとまっている五、六件の投資意向書を一ノ瀬真治に見せた。良い脚本があれば、すぐにでもプロジェクトを始められる状況だ。
一ノ瀬真治の顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「梨紗、自分の仕事に集中しなさい。おじいちゃんにいちいち報告しなくていいんだよ。おじいちゃんはお前を信じてる。」
「良い知らせは分かち合いたくて。少しでも元気になってくれたら、病気も早く良くなると思って。」
一ノ瀬真治は孫娘を見つめ、目には愛情がにじんでいる。
かつて娘は感情に流され、つらい末路を辿ったが、梨紗は違う。
恋愛に強くこだわるように見えても、冷静さを失わず、仕事でも才能を発揮している。
娘が残してくれたのは、本当に素晴らしい子だった。
ちょうどその時、清和雅彦が回診にやってきて、一ノ瀬真治を丁寧に診察した。あの緊急事態を乗り越えて以来、彼の回復はずっと順調だった。
梨紗は夜に宴席が控えていたので、祖父母に挨拶し、清和雅彦と一緒に病室を出た。
「今度ご飯でもどうですか?」
「食事はいらないよ。」
清和は冗談めかして言う。
「僕のためにもっと稼いでくれたら十分さ。」
「安心して、しっかり儲けてもらうから。でも、ご飯だけはぜひご馳走させてください。あの時、先生がいなかったら、おじいちゃんは……」
「斎藤主任の件、まだ証拠を隠そうとしてるみたいだけど、どうするつもり?」
「弁護士に相談したら、私に有利って言われた。ただ、紀康が邪魔しなければね。」
「紀康はどう言ってる?」
「調べるなって言うけど、私は絶対に諦めない。」
梨紗の口調には強い決意が込められていた。
斎藤主任の怠慢が祖父の命を危険に晒し、謝罪の一言もなかった。
絶対に許すつもりはない。
清和はそれ以上何も言わなかった。
梨紗も、彼を自分と斎藤主任や紀康の問題に巻き込みたくはなかった。
病院を出ると、梨紗はそのままスタイリングサロンへ向かった。
道中、小田監督から電話があり、今夜のパーティーへの出席を確認された。
梨紗が出席を伝えると、小田監督は「会ってから話したい」と言った。
サロンでは、河田裕亮がすでに準備を終えて待っていた。梨紗の装いはシンプルだったが、元々の美しさが引き立ち、ひときわ輝いて見えた。
二人で会場へと向かう。
少し離れたところには、中村和生と高橋青石がすでに到着していた。
中村はワイングラスを揺らしながら、河田の方を見て面白そうに言った。
「あれが河田さんか?最近、海外から戻ってきて国内で活動するんだってな。梨紗、もしかして芸能人に転身しようとか思って、河田に取り入って会場に入れてもらったんじゃないの?」
高橋の視線は梨紗に向けられていた。
昔はほとんど会う機会がなく、いつも子どもや紀康の世話で忙しそうで、地味な主婦という印象しかなかった。
だが最近のパーティーで見かけた梨紗は、雰囲気も服装もまるで別人だった。
正直に言って、きちんと装えば早乙女若菜にも引けを取らない。
「河田さんは役に対するこだわりが強いし、梨紗はずっと代役だったろ?彼女で河田さんの要求に応えられるのかね?」
二人は少し離れていたので、河田と周囲の人の会話までは聞き取れなかった。ただ、梨紗が脚本家や投資家たちに河田を紹介し、河田は名刺を交換している様子は見て取れた。
中村にも理解できた。梨紗は国内の芸能界に幅広い人脈がある。帰国したばかりの河田より、よほど顔が利くのだ。
「そういえば、若菜と紀康はまだ来てないのか?」と中村が尋ねる。
高橋はスマホを確認し、「今向かってるって、もうすぐ着くみたい」と答えた。
「若菜と紀康、ずっと暁美帆さんの脚本家と組みたがってたけど、なかなか決まらなかったじゃないか。河田さんが戻ってきたなら、ちょうど良いタイミングだな。」
中村はこれはチャンスだと思った。
若菜が到着すれば、河田も誰がヒロインにふさわしいか分かるだろう。
小田監督は、梨紗が河田を連れてきたのを見て、まず驚いた様子だったが、すぐに梨紗を脇に呼び、声をひそめて言った。
「いくら河田がついていても、神崎さんに正面から逆らうなんて無茶だよ!神崎さんは口にしなくても、君の脚本には投資するなって意思表示してる。今回の脚本、前の三作よりずっと良いし、すごく期待してるんだ。ヒロインを若菜にしたっていいじゃないか?」
梨紗ははっきりと答えた。
「小田監督、まだ契約していないってことは、やっぱり若菜さんでは合わないってことですよ。こうしましょう、この脚本の投資は私が探します。」
「君が投資家を探す?でも他の投資家だって、自分の俳優をねじ込もうとするよ?それに、神崎さんに知られたら、他の人に迷惑がかかる。そういう世界なんだよ!それに若菜の演技力は誰もが認めてるし、きっと良いヒロインになる!」
「監督がどうしても若菜さんを起用したいなら、私は他の監督を探します。」
「やめてくれ!」
小田監督は慌てて引き止めた。
「この作品はずっと前から約束してたんだ。ここまで順調だったのに、ヒロインだけが決まらない。もし他の投資家ならまだしも、よりによって神崎さんが……」
紀康の影響力は絶大で、小田監督も梨紗の将来を心配していた。
しかし、梨紗の頑固さに、どうすることもできなかった。
その時、会場入口でざわめきが起きた。
紀康と若菜が到着したのだ。
梨紗は少し驚いた。
二人は早乙女家の会食に行っているはずではなかったのか。なぜここに?
二人は会場を見渡し、すぐに河田の姿を見つけ、まっすぐこちらへと歩み寄ってきた。