「セイワ投資?」
監督の目が一瞬見開かれ、驚きを隠せなかった。
セイワ投資は業界で名の知れた存在だ。
紀康が早乙女若菜のためだけに資金を投入するのとは違い、セイワ投資が関わる作品は、それだけでクオリティが保証される。
たった二年で、彼らは次々とヒットドラマを生み出してきた。
主演俳優がトップスターでなくても、視聴者はこぞって作品を追いかける。
「セイワ投資とは長期的な提携契約を結びました。」
「脚本の質も申し分ありませんし、セイワ投資の名前もある。監督、他に心配なことは?」
監督はすっかり納得し、早乙女若菜が出演するかどうかにこだわることはなかった。
セイワ投資との仕事は、もともと彼の望みだったのだ。
今、そのチャンスが目の前にある。
梨紗が席を立ち、トイレへ向かう。
中村和生はすぐにそれを見逃さず、話し込んでいた紀康の袖を引いて小声で言った。
「若菜がトイレに行ったばかりなのに、梨紗も行ったぞ。若菜に何か仕掛けるつもりじゃ…?」
紀康は監督に軽く会釈し、中村和生と三条時彦と共に急いでトイレの方へ向かった。
洗面台の前では、早乙女若菜が鏡を見ながら髪を整えている。
梨紗は隣で静かに手を洗っていた。
紀康たち三人が近づくと、梨紗に向けられた視線はまるでスポットライトのようだった。
梨紗は鏡越しにその視線に気づき、すぐに状況を察した。口元にかすかな皮肉を浮かべ、手を拭くと、三人を気にすることなくその場を後にした。
中村和生はすぐに早乙女若菜に寄り、「大丈夫だった?何かされた?」と声をかける。
「彼女が来たと思ったら、すぐ皆が来てくれたから。」早乙女若菜は気楽そうに答えた。
「間に合ってよかった!」中村和生は胸をなで下ろす。
早乙女若菜は、まるで戦闘態勢の三人を見て、梨紗を完全に無視していた様子を思い出し、口元にさらに微笑みを浮かべた。
廊下では、河田裕亮が梨紗の姿を見つけてすぐに近づいた。
「大丈夫?」
「なかなかの威圧感だったけど、早めに出てきたから何もなかったわ。」
「気にすることないさ。あんな連中、相手にしなくていい。」
「私のせいで、裕亮まで面倒をかけてしまった。」
「気にするなよ。」
「俺たちはちゃんと実績のあるプロジェクトを抱えてる。これがヒットすれば、今日避けてた連中も、きっと後で頭を下げにくるさ。」
一方、早乙女若菜の周りには脚本家たちが集まり、自分の作品を必死にアピールしていた。
「ぜひ私の脚本もご覧ください。もしあなたの初監督作になれば、光栄です!」
「ご希望のジャンルがあれば、どんなものでも用意します!」
彼らの媚びた態度は、河田裕亮の毅然とした振る舞いとは対照的だった。
どれだけ海外で名を上げていても、河田裕亮が日本で通用するとは限らないと、皆そう思っていた。早乙女若菜は、何度か河田に協力を申し出て断られたことで、彼への関心を完全に失っていた。
早乙女若菜はにこやかに話を聞きながら、ふと尋ねた。
「暁美帆先生をご存知の方、いらっしゃいますか?一度お話ししてみたいんです。」
「暁美帆先生も今日いらしてますよ!」と脚本家の一人が答える。
「もしかしてご一緒に仕事を?」
「ええ、彼女の脚本の雰囲気が好きで、もしご縁があればと。」
「え?さっき少し話されてませんでした?」
「さっき?」
早乙女若菜はきょとんとした。
中村和生も記憶を探ったが、さっき挨拶した中に「暁美帆」と思しき人物はいなかった。
「間違いないですよ、僕らも見てましたし。」
早乙女若菜にはまったく心当たりがなかった。
脚本家たちは会場を見回したが、暁美帆の姿はどこにも見えない――梨紗が暁美帆だと知っている者は、ほんのわずかしかいなかったのだ。
その頃、梨紗は河田裕亮とともにそっと会場を後にしていた。
宴会場の外は、ほんのりと夜風が冷たい。二人は道端で車を待っていた。
河田裕亮は自分のジャケットを脱いで、自然な仕草で梨紗の肩にかける。
「ありがとう。」
梨紗が小さく礼を言い、ふと顔を上げると、ちょうど紀康が出口から出てくるところと目が合った。梨紗は表情を変えず、まるで他人を見るように視線をそらす。
河田裕亮も紀康の一行に気づいたが、意に介さず梨紗と静かに会話を続けた。
中村和生はその様子を見て驚いた。かつての梨紗なら、紀康の前では異性と目を合わせることすら気を遣い、彼を不機嫌にさせまいと必死だった。
それが今では、こんなに平然としていられるとは――まるで人が変わったようだ。
早乙女若菜は紀康の表情に目をやり、何事もなかったかのように視線を戻す彼を見て、内心で冷たく笑った。
どれだけ梨紗が演じて見せても、いまや彼女が河田裕亮とどんな関係になろうと、紀康は眉一つ動かさない。
紀康の車が先に到着し、中村和生はわざと大きな声で言った。
「紀康、それじゃ俺たちは先に行くから、若菜を送ってやって!」
早乙女若菜は階段を下りる時、少しバランスを崩してしまう。
「大丈夫か?」紀康がすぐに心配して声をかける。
「平気…」と言いかけた瞬間、紀康は彼女をひょいと抱き上げ、慎重に後部座席へと乗せた。
その大事にされている様子に、周囲は思わず息をのむ。
車が走り去るまで、紀康は梨紗に一度も視線を向けることなく、言葉も交わさなかった。
夜風の中、梨紗の肩には河田裕亮の体温が残るジャケットだけが、静かに温度差を物語っていた。