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第42話 神崎宗一郎の知るところ


河田裕亮は、紀康の車が遠ざかるテールランプを指さしながら、怒りを抑えた声で言った。


「彼、いつもあんなふうなの?」

「うん、もう慣れてるよ。」梨紗の声は感情の起伏もなく、淡々としていた。

「まだ離婚してないよね?なのにあんなに堂々と早乙女若菜と一緒に歩き回ってるなんて、神崎宗一郎さんは全然気づいてないのか?」河田の疑問は収まらない。


梨紗は彼を一瞥し、落ち着いた口調で言った。


「価値のない人のために、感情を使うだけ無駄だよ。」


そうは言っても、紀康の冷淡な態度を目の当たりにして、河田の怒りは簡単には収まらなかった。

大学時代、梨紗はまばゆいほど輝いていて、彼女に想いを寄せる者は後を絶たなかった。

その中には家柄も才能も兼ね備えた人も多かった。


大学四年のとき、河田は海外留学に旅立ち、後になって梨紗が紀康と結婚したことを知った――彼女が「太陽のような存在」と語っていた男性だった。

彼女はついに幸せをつかんだのだと思っていたが、今の紀康はあの頃梨紗を本気で想っていた人とは比べ物にならない、と痛感する。


タクシーが到着した。


梨紗が乗ろうとした瞬間、足首に鋭い痛みが走り、身体がふらついた。

「危ない!」河田はすぐに彼女を抱き上げ、車の中へと運び入れた。

彼は梨紗を病院に連れて行き、軽い捻挫で大事には至っていないことを確認してから、安心して彼女を自宅まで送り届けた。




翌日。


梨紗はその日の脚本を書き終え、ふと無音設定のスマホに目をやると、紀康からの不在着信がいくつも入っていた。どうせ出ないだろうと思ったのか、今度はメッセージが届いていた。


「父さんが来てる。すぐ帰れ。」


以前なら神崎宗一郎の体調も気遣い、紀康に合わせて演技することもあっただろう。

でも、おじいさん・一ノ瀬真治の生死に関わる出来事を経験してからは、もう譲歩ばかりしても紀康がつけあがるだけだと、梨紗は痛感していた。

宗一郎にどう説明するかは紀康自身の問題で、もう彼の尻拭いをするつもりはなかった。


簡単に身支度を整え、梨紗はおじいさんのお見舞いに行こうと準備する。ちょうどマンションのエントランスに差しかかったとき、スマホが鳴った。

表示されたのは「神崎宗一郎」。


梨紗は一瞬ためらったが、電話に出た。


「梨紗か。今家に来てるんだけど、いないんだね。」宗一郎の穏やかな声が聞こえた。

梨紗は用意していた返事をする。「お父さん、急な用事ができて出かけてます。どうして急にいらしたんですか?」

「家にいても暇だから、ちょっと顔を見に来たんだよ。それから本邸の裏のオーガニック農園で育ててた鶏が食べごろになったから、一羽分さばいて持ってきたんだ。」


神崎宗一郎はそう説明した。

彼が療養するようになってから、神崎家の本邸の裏には大きなオーガニック農園ができ、日常の食材は自家製の無農薬にこだわっていた。

梨紗の家にも時折届けてくれる。

梨紗は、鶏を持ってきたのは口実で、宗一郎には別の目的があるだろうと悟った。


「ありがとうございます。でも、こちらの用事がまだ片付かなくて……」梨紗は早く電話を切ろうとした。

「気にしなくていいよ。君のことは待ってるから。」宗一郎の声は相変わらず柔らかい。


梨紗はほっとして電話を切ろうとしたが、ちょうど廊下の奥から看護師が声をかけてきた。


「神崎さん!おじいさんの入院費が不足してますので、会計窓口で手続きお願いします!」

「はい、すぐ行きます!」


宗一郎の声が電話口から追いかけてきたが、梨紗はすでに通話を切っていた。


神崎邸・東京。


ダイニングには重苦しい空気が漂っていた。宗一郎は紀康が神崎拓海と朝食を取る様子を陰鬱な表情で見つめている。


「梨紗のおじいさん、入院してるんだろう?」宗一郎が低い声で尋ねた。

「病気なの?」と拓海も驚いた様子で父を見た。


宗一郎は二人を鋭い目で見渡した。


「もう何日も入院してるんだぞ!お前たちは全然知らなかったのか?」


紀康は知っていたが、特に気にも留めていなかった。

箸を置き、「お父さん、落ち着いて。体に障るよ」と言った。

「落ち着いていられるか!」宗一郎はテーブルを叩いて立ち上がる。

「おじいさんが退院するまで、俺は何も知らされないつもりか?梨紗の両親はもういない。おじいさんは彼女にとって一番大事な家族だ!入院なんて一大事、俺たちは知って当然だし、すぐに見舞いに行かなければならなかった!」


宗一郎はきっぱりと言った。


「拓海、もうご飯はいいから、支度して幼稚園に行きなさい。紀康、お前は子どもを送ったら、すぐ俺と一緒に病院に行くぞ!」


拓海はランドセルを取りに部屋へ戻りながら、紀康を見上げて尋ねた。


「パパ、昨晩ママが電話で、おじいさんに会いに行こうって言ってた……でも、そのあと連絡がなかった。ママ、怒ってるのかな?」


紀康は手を止めることなく、「早く支度しなさい。遅刻するぞ」とだけ言った。




病室。


梨紗は入院費を精算し、一ノ瀬真治のベッドのそばに戻った。

数日間の治療と休養で、おじいさんの顔色もだいぶ良くなった。担当医も朝の回診で、「順調に回復すれば、一週間もすれば退院できるでしょう」と伝えていた。


梨紗はおじいさんの手を握り、優しく言った。


「おじいさん、安心して治療を受けてくださいね。旅行もちゃんと手配しておきましたから、元気になったら一緒に出かけましょう。団体旅行は無理に参加しなくてもいいですし、好きなように計画できますから、疲れたらすぐ休めます。」

「梨紗、会社のことで忙しいだろうに、私たちのことまで気にしなくていいんだ。遊びに行くくらい、私たち二人で十分できるよ。」

「そんなこと言わないで。お二人が出かけるときは、私も一緒じゃないと心配なの。少なくともどこに泊まるかは教えてね。」

「はいはい、わかったよ。毎日電話して無事を知らせるから。」


おじいさんは笑いながらうなずいた。

梨紗が会社へ向かおうとしたとき、病室のドアが開き、神崎宗一郎が紀康を連れて入ってきた。紀康の手には高級そうな栄養ドリンクがいくつも入った袋があった。


一ノ瀬が起き上がろうとすると、宗一郎が慌てて駆け寄り肩を押さえた。「動いたらダメですよ!先生から、術後は安静が一番大事だと聞きましたから、無理は禁物です!」と真剣な口調で言った。


一ノ瀬は素直にベッドに横になり、梨紗は静かに椅子をベッドのそばに動かした。


宗一郎は深々と頭を下げて、「本当に申し訳ありませんでした!今日たまたま梨紗に電話して、初めて入院を知りました。すべては私の息子の不徳の致すところです。ご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした!」と謝罪した。


その視線は厳しく紀康をにらんだ。

一ノ瀬は宗一郎の手を軽く叩き、視線を紀康には向けず、静かだがどこか距離を感じさせる口調で言った。


「神崎さん、そんなに気にしないでください。結局、うちの梨紗が自分で決めたことです。本人がいいと思えば、私たち親はそれを尊重するだけです。」


その淡々とした言葉は、まるで見えない鞭のようだった。


宗一郎は胸を大きく上下させ、顔をきつくしかめて紀康に向き直り、厳しい声で怒鳴った。


「挨拶もできないのか!」


紀康は父の視線を正面から受け止め、そして無表情のまま病床の一ノ瀬を見て、静かに口を開いた。


、こんにちは。」

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