「子どもが誰のだって言うんだ!」
神崎宗一郎の声は怒りで震え、手に込められた力は増すばかりだった。
「梨紗はお前の妻になって
その手は顔ではなく、紀康の背中に激しく叩きつけられた。
父親としての深い失望と悲しみが込められていた。
何度打っても、その怒りは収まる気配がなかった。
紀康は反撃もできず、ただ父の叱責から逃れようとするばかりだった。
「お父さん!そんなに彼女を信じてるの?あの日、病院で僕ははっきり見たんだ。梨紗が男を連れて、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ったのを!」
「見たからって、それがすぐにお前の考えるようなことになるのか?」
「お前と早乙女若菜の噂が世間にあふれても、私はお前を信じてきた。梨紗もそうだ。あの男が梨紗のいとこや、昔の友人じゃないと言い切れるのか?お前の妻になってから、彼女は自分の世界すら失ってしまった。昔の知り合いと会ってはいけないのか?」
紀康は何か言い返そうとしたが、この家では父がいつも梨紗の味方であることをよく知っていた。
これ以上父の体を心配させたくなくて、黙り込むしかなかった。
宗一郎は青ざめた梨紗に向き直り、重い声で尋ねた。
「流産……いつの話だ?」
失った子どものことを思い出し、梨紗の胸は鈍い痛みに締め付けられた。
ひとりきりで家にいたあの日々、目を閉じれば赤ん坊の泣き声が耳に響く。
守りきれなかった――その苦しみで言葉が出なかった。
宗一郎は梨紗の痛ましい表情を見て、すぐに察した。
深くため息をつき、梨紗の肩にそっと手を置いた。
「もう分かった。君のせいじゃないよ。こんな夫じゃ、私だって子どもを産みたいとは思えなかったかもしれない。」
「違います、お父さん!私、そんなつもりじゃ……」
梨紗は必死に説明しようとした。
自分から子どもを諦めたわけじゃない、どうしても守れなかったのだと。
でも、宗一郎はもう自分の考えを変える様子はなかった。
彼は紀康の方に向き直り、指先が息子の顔すれすれまで伸びる。
「紀康!この話を聞いたとき、私がどれだけショックだったか分かってるのか?全部お前のせいだ。梨紗がこんなに絶望するようなことをしなければ、こんなことにはならなかったんだ!さっきの件だって、やりすぎじゃないか?」
「私が無理やり連れてこなければ、お前は病院に来ようともしなかっただろう。梨紗の祖父はお前にとっても大事な家族だぞ。病室で私に言われてやっと挨拶して、病状のことも一言も聞かず、勝手に帰る。どんな事情があったにせよ、私も梨紗もその場に置き去りだ。梨紗がこれまでしてきたことに、お前は応えたことがあるのか?」
紀康は無言のまま、宗一郎が見慣れた、頑なに耳を貸さない表情を浮かべていた。
どんな言葉も空振りのようだった。
宗一郎はついに疲れ果て、何も言わずに背を向けた。
「お父さん、お送りするよ。」と紀康が一歩踏み出す。
「結構だ、自分で帰る」宗一郎はきっぱりと断り、梨紗に目を向けた。
「梨紗は仕事があるんだろう?そいつに送らせなさい」
そう言い残して、足早に去っていった。
宗一郎は、梨紗が働いていることは知っていたが、何をしているのかまでは知らなかった。
彼女が「好きなことをしたい」と言ったとき、神崎家が彼女に多くを背負わせてきた自覚があったから、当然応援するつもりだった。
梨紗は、絶対に紀康には送らせたくなかった。
足早に歩き、少しでも彼から離れようとする。
しかし紀康は後を追ってきた。冷たい声には、いつものような疑いがにじむ。
「お父さんに告げ口したのか?」
梨紗はぴたりと足を止め、空気が一気に張り詰めた。
彼を見ようともせず、その冷たい怒りが全身から溢れ出ていた。
「今まで、お前が何を言おうと、お父さんが本気で俺をどうにかできたことがあったか?今回も、おじいちゃんの前まで巻き込んで。俺が最後に言ったこと、聞いていなかったのか?」
紀康の言葉には、相変わらずの高慢さが滲んでいた。
積もり積もった怒りが、ついに理性を突き破った。
梨紗は勢いよく足を上げ、紀康のすねを思い切り蹴りつけた。
「最低!」
この動作を、梨紗は何度も心の中で繰り返してきた。
以前なら躊躇していたけれど、今はもうどうでもよかった。
叫ぶと、振り返りもせずにその場を去った。
紀康は不意を突かれ、足に鋭い痛みを感じてよろめいた。
その表情は、驚きと怒りで歪んでいた。梨紗の背中を睨みつけたが、結局何も言えないまま、彼女は行ってしまった。
梨紗は階段を駆け下りると、早乙女若菜がまだ帰らず、廊下の隅で紀康を待っているのを見つけた。さっき宗一郎が下りてきた時、彼女はわざと身を隠していた。
梨紗を見ると、若菜はわざとらしい勝ち誇った笑みを浮かべながら近づいてきた。
梨紗は相手にする気もなく、立ち去ろうとした。
そのとき斎藤主任が診察室から出てきて、梨紗を見つけると満面の笑みで手を差し出した。
「
早乙女若菜は丁寧に微笑みながら「いえ、斎藤主任、お忙しいでしょうから。祖母のことは急ぎませんので、お仕事をどうぞ」と返し、そのまま紀康の方へと視線を向け、すぐに彼の腕に自然に手を絡めた。
「斎藤主任、報告書ができたら私か紀康にご連絡ください。私たちはこれで失礼します」と言い、親しげに紀康に寄り添いながらその場を去ろうとした。
紀康は梨紗を一瞥したが、その目は他人を見るように冷たかった。若
菜の腕を振りほどくこともなく、彼女と肩を並べて通り過ぎていった。
斎藤主任は満足そうに二人の後ろ姿を見送り、思わず感嘆の声をこぼした。
「まさにお似合いのカップルですね!」
彼は梨紗の存在になど気づかないかのように、診察室へ戻っていった。
梨紗は病院の玄関で立ち尽くし、心の中に冷たいものが広がっていった。
*****
タクシーを止めて、会社の住所を告げる。
梨紗と河田裕亮は、会社の名称変更や代表者変更の手続きで忙しくしていた。
彼女が入ってくると、河田はすぐに用意していた書類を手に取った。
「必要なものは全部揃っています。梨紗さん、もう持っていくものはないですか?なければ、すぐに手続きに行きましょう」
「大丈夫、行きましょう」
立ち上がり、デスクを離れようとしたとき、肘がうっかり水の入ったグラスに当たった。
「ガシャン——!」
ガラスのコップが床に落ちて粉々に砕け、破片が四方に飛び散った。
梨紗は思わずしゃがみ込んで拾おうとした。
「手で触っちゃダメだ!」
河田の声も間に合わず――
鋭いガラスの破片が梨紗の指を切り、鮮やかな血がすぐに溢れ出した。
床に滴り落ちる赤い血は、どこか止まらないようで、痛々しかった。