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第44話 流産をめぐる代償


「子どもが誰のだって言うんだ!」


神崎宗一郎の声は怒りで震え、手に込められた力は増すばかりだった。


「梨紗はお前の妻になって7、真面目にやってきたじゃないか。家のことも外のことも、お前よりずっとしっかりしてる。そんな彼女を他の男と疑うなんて!」


その手は顔ではなく、紀康の背中に激しく叩きつけられた。

父親としての深い失望と悲しみが込められていた。

何度打っても、その怒りは収まる気配がなかった。

紀康は反撃もできず、ただ父の叱責から逃れようとするばかりだった。


「お父さん!そんなに彼女を信じてるの?あの日、病院で僕ははっきり見たんだ。梨紗が男を連れて、おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ったのを!」

「見たからって、それがすぐにお前の考えるようなことになるのか?」

「お前と早乙女若菜の噂が世間にあふれても、私はお前を信じてきた。梨紗もそうだ。あの男が梨紗のいとこや、昔の友人じゃないと言い切れるのか?お前の妻になってから、彼女は自分の世界すら失ってしまった。昔の知り合いと会ってはいけないのか?」


紀康は何か言い返そうとしたが、この家では父がいつも梨紗の味方であることをよく知っていた。

これ以上父の体を心配させたくなくて、黙り込むしかなかった。

宗一郎は青ざめた梨紗に向き直り、重い声で尋ねた。


「流産……いつの話だ?」


失った子どものことを思い出し、梨紗の胸は鈍い痛みに締め付けられた。

ひとりきりで家にいたあの日々、目を閉じれば赤ん坊の泣き声が耳に響く。

と責められているようだった。

守りきれなかった――その苦しみで言葉が出なかった。


宗一郎は梨紗の痛ましい表情を見て、すぐに察した。

深くため息をつき、梨紗の肩にそっと手を置いた。


「もう分かった。君のせいじゃないよ。こんな夫じゃ、私だって子どもを産みたいとは思えなかったかもしれない。」


「違います、お父さん!私、そんなつもりじゃ……」


梨紗は必死に説明しようとした。

自分から子どもを諦めたわけじゃない、どうしても守れなかったのだと。

でも、宗一郎はもう自分の考えを変える様子はなかった。

彼は紀康の方に向き直り、指先が息子の顔すれすれまで伸びる。


「紀康!この話を聞いたとき、私がどれだけショックだったか分かってるのか?全部お前のせいだ。梨紗がこんなに絶望するようなことをしなければ、こんなことにはならなかったんだ!さっきの件だって、やりすぎじゃないか?」


「私が無理やり連れてこなければ、お前は病院に来ようともしなかっただろう。梨紗の祖父はお前にとっても大事な家族だぞ。病室で私に言われてやっと挨拶して、病状のことも一言も聞かず、勝手に帰る。どんな事情があったにせよ、私も梨紗もその場に置き去りだ。梨紗がこれまでしてきたことに、お前は応えたことがあるのか?」


紀康は無言のまま、宗一郎が見慣れた、頑なに耳を貸さない表情を浮かべていた。

どんな言葉も空振りのようだった。

宗一郎はついに疲れ果て、何も言わずに背を向けた。


「お父さん、お送りするよ。」と紀康が一歩踏み出す。


「結構だ、自分で帰る」宗一郎はきっぱりと断り、梨紗に目を向けた。

「梨紗は仕事があるんだろう?そいつに送らせなさい」


そう言い残して、足早に去っていった。

宗一郎は、梨紗が働いていることは知っていたが、何をしているのかまでは知らなかった。

彼女が「好きなことをしたい」と言ったとき、神崎家が彼女に多くを背負わせてきた自覚があったから、当然応援するつもりだった。

梨紗は、絶対に紀康には送らせたくなかった。

足早に歩き、少しでも彼から離れようとする。

しかし紀康は後を追ってきた。冷たい声には、いつものような疑いがにじむ。


「お父さんに告げ口したのか?」


梨紗はぴたりと足を止め、空気が一気に張り詰めた。

彼を見ようともせず、その冷たい怒りが全身から溢れ出ていた。


「今まで、お前が何を言おうと、お父さんが本気で俺をどうにかできたことがあったか?今回も、おじいちゃんの前まで巻き込んで。俺が最後に言ったこと、聞いていなかったのか?」


紀康の言葉には、相変わらずの高慢さが滲んでいた。

積もり積もった怒りが、ついに理性を突き破った。

梨紗は勢いよく足を上げ、紀康のすねを思い切り蹴りつけた。


「最低!」


この動作を、梨紗は何度も心の中で繰り返してきた。

以前なら躊躇していたけれど、今はもうどうでもよかった。

叫ぶと、振り返りもせずにその場を去った。

紀康は不意を突かれ、足に鋭い痛みを感じてよろめいた。

その表情は、驚きと怒りで歪んでいた。梨紗の背中を睨みつけたが、結局何も言えないまま、彼女は行ってしまった。


梨紗は階段を駆け下りると、早乙女若菜がまだ帰らず、廊下の隅で紀康を待っているのを見つけた。さっき宗一郎が下りてきた時、彼女はわざと身を隠していた。

梨紗を見ると、若菜はわざとらしい勝ち誇った笑みを浮かべながら近づいてきた。

梨紗は相手にする気もなく、立ち去ろうとした。

そのとき斎藤主任が診察室から出てきて、梨紗を見つけると満面の笑みで手を差し出した。


!いらっしゃいましたね。お祖母様のご様子を見にいらしたんですか?どうぞ、私の部屋でお話ししましょう!」


早乙女若菜は丁寧に微笑みながら「いえ、斎藤主任、お忙しいでしょうから。祖母のことは急ぎませんので、お仕事をどうぞ」と返し、そのまま紀康の方へと視線を向け、すぐに彼の腕に自然に手を絡めた。


「斎藤主任、報告書ができたら私か紀康にご連絡ください。私たちはこれで失礼します」と言い、親しげに紀康に寄り添いながらその場を去ろうとした。


紀康は梨紗を一瞥したが、その目は他人を見るように冷たかった。若

菜の腕を振りほどくこともなく、彼女と肩を並べて通り過ぎていった。

斎藤主任は満足そうに二人の後ろ姿を見送り、思わず感嘆の声をこぼした。


「まさにお似合いのカップルですね!」


彼は梨紗の存在になど気づかないかのように、診察室へ戻っていった。


……?


梨紗は病院の玄関で立ち尽くし、心の中に冷たいものが広がっていった。


*****


タクシーを止めて、会社の住所を告げる。

梨紗と河田裕亮は、会社の名称変更や代表者変更の手続きで忙しくしていた。

彼女が入ってくると、河田はすぐに用意していた書類を手に取った。


「必要なものは全部揃っています。梨紗さん、もう持っていくものはないですか?なければ、すぐに手続きに行きましょう」

「大丈夫、行きましょう」


立ち上がり、デスクを離れようとしたとき、肘がうっかり水の入ったグラスに当たった。


「ガシャン——!」


ガラスのコップが床に落ちて粉々に砕け、破片が四方に飛び散った。

梨紗は思わずしゃがみ込んで拾おうとした。


「手で触っちゃダメだ!」


河田の声も間に合わず――

鋭いガラスの破片が梨紗の指を切り、鮮やかな血がすぐに溢れ出した。

床に滴り落ちる赤い血は、どこか止まらないようで、痛々しかった。

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