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第45話 受付


河田は慌ててティッシュを取り出し、梨紗の指に押し当てて止血しながら、そっと椅子に座らせた。

そのあと素早くほうきを持ってきて、床に散らばったガラスの破片を手際よく片付ける。

梨紗は眉をひそめ、指先の痛みにじっと耐えていた。

片付けを終えた河田が彼女の前に戻り、はっきりと言った。


「…元気ないね。」


梨紗は血で赤く染まったティッシュを見下ろしながら、会社に応急用の薬もないため、とりあえず押さえておくしかなかった。


「大丈夫。」

「何が大丈夫だよ。君が入ってきたときから様子が変だった。気がここになかっただろ?」

「梨紗、俺がいるから、何があっても一人で抱え込まなくていいんだ。」


河田は真剣な口調で続ける。

梨紗は少し微笑みを浮かべた。


「分かった、行こう。」


立ち上がり、彼女が先に歩き出す。

その後の手続きは順調に進み、関連部署を出る頃には、梨紗の表情も少し和らいでいた。


「そうだ、午後は何人か脚本家の面接があるから、お昼は適当に済ませて戻らなきゃ。」と歩きながら言う。

「分かった。」河田も、梨紗の調子が戻ったのを見て頷いた。


午後の面接も順調で、良さそうな人材が一人見つかり、明日から来てもらえることになった。

退勤間際、梨紗はスマートフォンを見て、出演料の振込通知を確認したが、金額が違っていた。

すぐに撮影現場に電話をかける。


「お休みは問題ないですが、休みの期間が長すぎます。神崎社長からの指示で、休んだ分は三倍の違約金を差し引かせていただきます。」

相手は、あたかも「神崎社長の名を出せば従うだろう」といった口ぶりだった。

梨紗はしばらく沈黙し、「分かりました」とだけ返して電話を切った。


その後、河田に一言だけ声をかけて早めに会社を出て、紀康に電話をかけた。

しかし応答はなかった。

さらに、紀康の秘書・山本に電話をかける。

山本の声は事務的でよそよそしい。これは紀康の意向で決められた態度と呼び方だ。


「神崎さんですか?」

「紀康は会社にいますか?」

「はい。ただ、神崎社長は…」


山本が言いかけたところで、梨紗はすでに電話を切っていた。

梨紗が神崎財閥本社に足を運ぶのは稀だった。神崎宗一郎に特別な用があるときぐらいだ。

新しく入った受付が梨紗を知らないのも無理はない。

受付はちょうど退勤の準備をしていて、何としても通そうとはしなかった。

ついには手で進路を塞ぐ。

受付はきっぱりとした口調だ。


「申し訳ありませんが、無理を言わないでください。本当に神崎社長とご面識があるのでしたら、直接ご連絡ください。ご本人の指示があれば、すぐにご案内しますので。」

「そうです、お客様。もうすぐ交代なので、これ以上無理に入られたら、私たちまで立場が危うくなります。どうかご理解ください。」


梨紗は彼女たちを困らせる気はなく、ロビーの待合スペースに移動して座った。

受付は去る前に警備員に念を押していた。

警備員も時折こちらを警戒するように見てくる。まるで不審人物を警戒するかのようだった。


待っていると、早乙女若菜が堂々とロビーに現れた。警備員たちは次々と挨拶し、彼女は自分の家のように自由に出入りしている。


早乙女若菜も梨紗に気づき、そのまま前に立ってあえて驚いたふりをする。


「あれ、どうしたの?」


梨紗は無視した。

早乙女若菜はわざとらしく「ああ、紀康に会いに来たの?どうして中に入らないの?」


梨紗は視線を落としたまま、気に留めない。

警備員たちが隅でひそひそ話しているのが視界の端に映る。


「もしかして、紀康が会いたくないのかな?」と、早乙女若菜は心配そうな口調で続ける。「私が中に伝えてあげようか?」

「結構です。」梨紗の声は冷たかった。

「ここでずっと待ってても意味ないよ。あの人、忙しいときは夜中まで出てこないから。」


梨紗は沈黙を貫いた。

早乙女若菜は肩をすくめ、興味なさそうにエレベーターに乗り込んだ。

しばらくして、警備員の一人が恐る恐る近づいてきて、小声で尋ねた。


「本当に…神崎社長と知り合いなんですか?」

梨紗はスマホから顔を上げ、「大丈夫、あなたが困るようなことはしないわ」とだけ言った。


警備員は少し考えて何も言わずに戻った。

早乙女若菜はしょっちゅう出入りしていて、皆その事情はよく知っている。彼女は神崎社長のお気に入り。

もし目の前の女性を通したことで早乙女若菜の機嫌を損ねたら、自分の立場が危うくなるのは明らかだった。


その後、早乙女若菜はもう二度ロビーに降りてきた。一度は食事を取りに来たが、本来なら秘書に頼めば済むことを、わざわざ自分で動いて見せつけるようだった。

最後に降りてきたときも、梨紗をちらりと見て、その口調には、微妙な優越感が混ざっている。


「ご飯食べた?何か頼もうか?さっき紀康にあなたがまだ下で待ってるって言ったけど、今すごく忙しいみたいで、すぐには終わらないって。」

「何かあったら私に言って。受付に伝えてくれればいいから。」


そう言って、早乙女若菜は荷物を持って再び専用エレベーターに乗り込む。

梨紗はそっと手を握りしめた。

実際、食事はしていなかった。


もうを過ぎ、空腹が限界に達していた。紀康が出てくる瞬間を逃したくなくて、その場を離れられず、仕方なく出前を注文する。

しかし、なかなか届かず、胃の痛みがじわじわと襲ってきた。

ようやく届いた頃には、料理はすっかり冷えていた。梨紗はどうにか数口だけ食べてみる。

だが、すぐにおなじみの胃痛がぶり返してきた。

子どもの世話で不規則な食生活を続けていた頃の後遺症で、しばらく落ち着いていたが、今日は空腹と冷たい食事が重なり、また痛み出したのだった。


「顔色が悪いので…もう帰られた方がいいのでは?」


警備員の一人が心配そうに声をかけてきた。


「大丈夫です、ありがとうございます。」梨紗は無理に微笑んだ。


まだ大丈夫。

今日はどうしても紀康に会い、の話をきっちりつけたかった。

そのとき、エレベーターが「チン」と鳴き、ドアが開いた。

先に出てきたのは山本で、不機嫌そうに声を上げた。


「どうしてロビーで食事してるんです?会社の規則を知らないんですか?」


その後ろから出てきたのは、早乙女若菜と紀康だった。

梨紗は顔を上げ、人混み越しに紀康と目が合った。

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