山本が梨紗を見かけたとき、一瞬驚いた様子を見せ、さらに彼女が食事をしていることに気づいて、もう一度戸惑った。
梨紗は弁当を放り出すことなく、さらに一口食べてから、真っ直ぐ紀康を見つめて言った。
「ここでご飯を食べちゃいけないの?」
紀康はわずかに眉をひそめ、彼女の前まで歩み寄る。
「わざわざここで食べる意味があるのか?」
梨紗の顔には苦しげな表情が浮かび、胃の奥から鋭い痛みが走る。彼女は早乙女若菜を一瞥すると、「ちょっと話があるの」と言った。
「今は時間がない。」
「すぐ終わるから。」
早乙女若菜がそっと紀康の袖を引っ張る。
「紀康、お腹すいたから、もう行こうよ。」
紀康は軽く返事をし、背を向けて歩き出した。
梨紗は額に冷や汗を浮かべ、声を張り上げた。
「紀康!」
紀康は足を止めたが、振り返ることなく、そのまま早乙女若菜と一緒に立ち去った。
次の瞬間、梨紗の視界が暗転し、重々しく床に倒れ込んだ。
「お嬢さん!」警備員が慌てて駆け寄る。
早乙女若菜はその声に振り返り、紀康の腕を押した。
「倒れたみたい。様子見てきて!」
だが紀康は一度も振り向かず、早乙女若菜の手を引いて立ち去り、「嘘の芝居だ。放っておけ」とだけ言い残した。視線で山本に処理を任せる。
警備員たちは戸惑いながらも、とりあえず周囲を囲み、誰かが手を貸すべきか迷い、また別の者は救急車の手配に走った。山本が近づいてきて小声で言う。
「もういい、皆自分の仕事に戻れ。ここは私が対応する。」
警備員たちが離れると、山本はしゃがみ込み、声を低くしてはっきりと言った。
「会社中に自分が神崎家の奥さんだと知られたいのか?」
「神崎社長は君に十分よくしている。君のおじいさんの会社も、何度か神崎社長の助けで持ちこたえてきた。もしそれがなかったら、おじいさんは今までやってこれたと思うか?」
「分別のある人間なら、自分で立ち上がって、きれいに出て行くべきだ。ここで寝転がっても無駄だ、神崎社長は戻ってこない。」
「ロビーでの飲食は禁止されている、これは社のルールだ。会社のイメージに関わる。責任は取れないだろう。」山本は苛立ちを隠さず言った。
「この弁当は捨てさせてもらうし、清掃も呼んで消臭するから。」
梨紗は全く動かない。
山本はこれほど空気の読めない女を見たことがない。ここまで言っても、まだ気を失ったふりをしている。山本は立ち上がり、遠くの警備員に向かって冷たく指示した。
「五分以内に意識が戻らなければ、神崎グループの敷地から500メートル離れたところまで運び出せ。」
警備員たちは顔を見合わせながらも、従うしかなかった。
山本はさらに付け加えた。
「彼女が騒ぎ出したら、この顔を覚えておけ。二度と中に入れるな。」
「かしこまりました!」
山本はその場を離れた。時は流れ、梨紗は微動だにしない。警備員たちも、次第に様子が変だと気づき始める。
「どうも、演技じゃなさそうだ……」
「顔色が真っ白だ!」
慌てて駆け寄り、何度呼びかけても梨紗に反応はない。ひとりの警備員が震える声で叫ぶ。
「急いで!もう一度救急車を!」
救急車が駆けつけ、救急隊が素早く梨紗を運び込む。警備員が焦って尋ねる。
「大丈夫なんですか?」
「まだ分かりません。詳しく検査する必要があります。ご家族は?」医師が聞く。
警備員は首を振る。
「分かりません!」
「何とかして家族に連絡を!」医師が急かし、ドアを閉めた。
救急車が去ると、警備員はすぐ山本に電話をかけた。
「山本さん、本当に救急車で運ばれていきました!ご家族に連絡できますか?」
電話の向こうで、山本は淡々と答えた。「分かった。もう気にしなくていい。」そう言って電話を切った。
警備員は困惑した表情でスマホを見つめる。
山本はすぐに、早乙女若菜と食事中の紀康に簡単に状況を報告した。
「分かった。」紀康はそれだけ言い、電話を切った。
早乙女若菜が心配そうに尋ねる。
「どうかした?」
「大丈夫だ。食べよう。」
紀康は多くを語る気はなかった。
早乙女若菜は優しく料理を取り分けてあげる。
「本当に大丈夫ならいいけど、もし何かあるなら見に行ってきて。私は平気だから。」
「必要ない。」
紀康はきっぱりと言い、焼き海老を箸でとって若菜の口元へ差し出した。若菜は微笑んで受け取り、二人は目を合わせて穏やかに笑った。
*****
病院の救急センター。
その夜、清和雅彦は当直だった。
神崎グループから搬送され、身元不明の女性患者がいると聞いても、最初は気にも留めなかった。
だが、看護師が「神崎梨紗」と名前を読み上げた瞬間、彼の顔色が変わり、すぐに現場へ駆けつけた。
「どうした?」と救急医に尋ねる。
医師は梨紗のスマホを手に困った顔をしていた。
「清和先生、いらっしゃいましたか。患者さんは神崎グループから搬送されてきて、まだ詳しい状況が分かりません。家族にも連絡が取れなくて……こんな夜遅くに電話するのもどうかと……」
隣にいた看護師がスマホ画面の連絡先を指差した。
「先生、この番号、先生のお名前で登録されてます。ご存知ですか?」
清和雅彦はスマホを受け取り確認し、自分の番号であることを確かめた。
「知り合いだ。彼女の容体は?」
医師は迅速に説明し、検査費用の支払いを求めた。清和雅彦は病院の医師である権限を使い、すぐに保証人としてサインし、費用を支払ったうえで、検査の様子を付きっきりで見守った。
しばらくして、担当医が報告に来た。
「問題ありません。急性の胃痙攣で、冷たいものを食べた刺激によって一時的に意識を失ったようです。」
清和雅彦は眉をひそめた。
胃の病気……冷たい食事……
神崎グループのロビーで倒れた……紀康は梨紗の体調を知っていたのだろうか。