梨紗は紀康の存在を無視して、斎藤主任を真っすぐに見据えた。
「斎藤主任が今も態度をはっきりさせないのであれば、私は法的な手続きを進めるしかありません。」
斎藤主任は顔をしかめて言った。
「こんなものを見せて脅すつもりか?私はそんなに簡単に脅される人間じゃない。」
梨紗の表情が一瞬で冷たくなり、一歩下がると、隣の藤原翔太を紹介した。
「こちらは藤原翔太弁護士です。業界でも大変信頼されている方です。あなたにどんな後ろ盾があっても、藤原先生は全力で私をサポートしてくれます。」
斎藤主任の顔がみるみる青ざめた。
藤原翔太の名前は彼もよく知っている。
この弁護士は確かなバックグラウンドを持ちながらも、それを笠に着ることはなく、弱者のために声を上げ、権力にも臆さず多くの難事件を手がけてきた。
そのため、多くの人にとって希望であり、同時に恐れられる存在でもあった。
まさか梨紗が藤原翔太を動かせるとは思いもしなかった。斎藤主任の顔色はさらに悪くなった。
「外で話そう。」
紀康が手を伸ばして梨紗を連れ出そうとした。
梨紗はびくともせず、きっぱりと言い返した。
「私を外へ連れ出しても意味はありません。藤原先生は私の考えを全て理解しています。ここを離れたら、むしろ法的手続きを進める決心が固まるだけです。」
そして斎藤主任を見やり、「今日はあなたにお知らせに来ただけです。私は和解をする気はありません。斎藤主任、覚悟してください。」
そう言うと、梨紗は藤原翔太とともにその場を後にした。
エレベーターの前で、梨紗は自ら手を差し出し、藤原翔太と握手を交わした。
「ありがとうございます、藤原先生。他の方よりも紀康さんの後ろ盾は強いので、ご迷惑をおかけしないか心配で…」
「心配いりません。私は自分の力の範囲でしか仕事を引き受けません。お引き受けした以上、必ずやり抜きます。後は私から連絡します。」
「本当にありがとうございます。」
梨紗は心から礼を述べた。
藤原翔太は上層社会の裏側をいくつも見てきたが、このときばかりは梨紗の置かれた状況に少し心が重くなった。しかし、彼はプロとして、決して余計なことは口にしなかった。
梨紗はこの後、おじいさんである一ノ瀬真治の元へ向かう予定だった。
藤原翔太がエレベーターで降りていくのを見送ってから、彼女もその場を離れた。
紀康が藤原翔太を買収しようとする心配もない。
藤原翔太は、弁護士として信念を持ち、依頼人の利益を損なうようなことは絶対にしないと、以前明言していた。
少し歩いたところで、怒りを含んだ声が背後から響いた。
「梨紗!」
梨紗は無視しようとしたが、彼らがおじいさんのもとへ行くのを恐れて、立ち止まり、冷たく振り向いた。
那須太郎が足早に近づき、警戒の色を浮かべながら、紀康に気づかれまいと声を落として言った。
「斎藤主任を告発して、祖母を殺す気か?」
梨紗の目はさらに冷たくなった。
「じゃあ私のおじいさんはどうなの?母があなたと離婚して、おじいさんとはもう赤の他人。でも私にとっては大事な家族なのに、命の瀬戸際で斎藤主任はあなたの母親ばかり診ていた。人の命を軽んじ、医者としての責任を果たさなかった。訴えるのは当然でしょ!」
那須太郎は周囲を気にしながら、声をひそめて脅すように言った。
「おじいさんはもう大丈夫だったんだろ?紀康もの投資を約束してる。それ以上何を望むんだ?斎藤主任の腕は一流だ。おじいさんのことばかりで、他の人の命はどうでもいいのか?」
「どれだけ腕が良くても、他にも医者はたくさんいる!医者としての良心を失った人間に任せておいたら、また同じ悲劇が起きる。私は正しいことをしているだけよ。」
「お前、いい加減にしろよ!」
その醜悪な表情を見て、梨紗は「血がつながっていることすら恥ずかしい」と心底感じた。
「那須太郎、少しは自分の行いを反省しなさい。悪事ばかりしていると、ろくな死に方しないわよ。」
「この…!」
那須太郎は怒りで手を上げかけた。
「お父さん!」早乙女若菜の声が響いた。
彼女はすぐに二人の間に入り、冷たい表情で梨紗を見つめた。
「梨紗、父の体調が悪いのに、わざと怒らせて何か弱みを握ろうとしているの?私に文句があるなら、私に言いなさい。父に手を出すな。」
これが梨紗と早乙女若菜の初めての直接対決だった。もし那須太郎が先に手を出したことを隠す必要がなければ、早乙女若菜はこんな芝居すらしなかっただろう。彼女にとって梨紗など取るに足らない存在だった。
そのとき、紀康も駆けつけ、険しい顔で梨紗を見た。
「梨紗、一体何がしたいんだ?」
梨紗の胸の奥に激しい怒りが渦巻いたが、その感情はすぐに冷え切った。何を言っても、紀康は必ず早乙女若菜の味方をする。梨紗は那須太郎との親子関係を暴露する気もなく、黙ってその場を去った。
背後では、紀康が那須太郎を気遣う声が聞こえた。
「伯父さん、梨紗に何か言われましたか?大丈夫ですか?彼女の罠に引っかからないようにしてください。」
那須太郎と早乙女若菜は意味深な視線を交わし、作り笑いを浮かべた。
「大丈夫、大丈夫。来てくれて助かったよ。ところで、お祖母さんが診察室に一人でいるけど、様子はどうだろう。」
彼らは那須家の老夫人のもとへ向かった。
診察室の中では、斎藤主任が藤原翔太の存在に気を揉んでいたが、紀康が全面的に守ると約束したことで、ようやく気を取り直し診察を続けた。
梨紗はおじいさんである一ノ瀬真治の病室に戻った。
「どうしたの?注射までしたのかい?」
祖母の声には深い心配が滲んでいた。
鼻の奥がツンとし、涙がこみ上げそうになる。
昨日から今日まで、梨紗はほとんどの苦しみや孤独を一人で抱えてきた。
紀康に冷たくされるのは慣れていたが、祖母の細やかな気遣いが、強がりを簡単に崩してしまった。
梨紗はすぐに気持ちを整え、笑顔を作った。
「大丈夫だよ、お祖母さん。ちょっと胃の調子が悪かっただけ。注射してもらったから、もう元気になったよ。」
「起業したばかりなんだから、体が一番大事よ。忙しいのはわかるけど、病院ばかり来てないで、ちゃんとご飯食べて自分の体も大事にしなさい。」
祖母は心配そうに言った。
「お祖母さん。おじいさんの具合はどう?」
「ずいぶん良くなったわよ。先生も回復が早いって。清和先生――清和雅彦先生も時々様子を見に来てくれて、念入りに診てくださってるの。」
祖母は安心した表情で続けた。
「ねえ、清和先生にはきちんとお礼を言っておいてね。おじいさんがこんなに早く良くなったのは、清和先生のおかげだから。」
「うん、ちゃんと伝えるね、お祖母さん。」
おじいさんが本当に回復していることを確認し、梨紗は清和雅彦を探しに行った。医局の近くまで来ると、ちょうど彼が手術室の方から出てくるところだった。
手術着のまま、キャップをかぶった清和雅彦は、手術後の集中した雰囲気をまとい、どこか特別な魅力を放っていた。