清和雅彦は手術を終えたばかりで、マスクで顔の大半が隠れていたが、それでも漂う落ち着いたプロフェッショナルな雰囲気は際立っていた。
「おじさん、」
「このあと少しお時間ありますか?ご飯をご馳走したいんです。」
「前にも言ったけど、そんな気を遣うことないよ。」
清和は手術明けで少し疲れた声だった。
「家族なんだから、わざわざ礼なんていらないよ。もう一件手術が控えていてね、多分十数時間はかかると思う。」
二度も断られ、梨紗はもう無理に誘うのをやめて、軽く頷いた。
病院を出ると、まだ午後の仕事までは時間があった。梨紗は清和へのお礼として、何か贈り物を買うことにした。食事は断られても、感謝の気持ちは伝えたい。
彼女はデパートをぶらぶら歩きながら、ぴったりの贈り物を探していた。
ふと目に留まったのは高級メンズファッションの店。そこで梨紗の足が止まる――紀康と、早乙女若菜、そして彼女の両親の姿を見かけたのだ。
思わず背を向けようとしたその時、店員たちのひそひそ話が耳に入った。
「見た?試着してるの、早乙女若菜さんのお父さんよ!神崎さんが自ら付き添ってるんだから。」
「それだけじゃないよ、さっき神崎さん、若菜さんのお母さんとおばあちゃんにもたくさんプレゼントしてたよ。ちょっとでも気に入ったらすぐにまとめてお買い上げ!」
「そりゃそうよ、付き合ってるんでしょ?じゃなきゃ神崎さんがここまで太っ腹になる?」
「シーッ!声小さくして!心の中に留めときなさいって。変な噂でも流したら、神崎グループの法務部が黙っちゃいないから。若菜さんは今売れっ子だし、結婚してる芸能人もいるけど、やっぱりイメージには響くからね。余計なことはしない方がいいよ。」
「わかってるわよ!でも、うちのカウンターにも来てくれないかな、大きな注文入りそうだし!」
梨紗の足はその場に釘付けになった。目の前の「家族団らん」の光景が、彼女の胸を鋭く刺した。
それは、祖父の危篤の時、義父の神崎宗一郎の強い命令で、ようやく紀康が顔を見せた日のことを思い出させた。
お見舞いの品?
そんなもの期待するだけ無駄だった。病院に来てくれるだけで精一杯だったのだ。
もうこれ以上見ていられず、梨紗はその場を離れようとした。
その時、早乙女若菜が彼女の背中に気づき、得意げに小さく呟く。
「おばあちゃん、あの人は気にしなくていいの。私が結婚を断っている限り、彼女はずっと私のカモフラージュ役。せいぜいその程度の存在よ。」
若菜はにっこり笑って、
「お父さん、私がこんなに可愛いのは、お父さんのいい遺伝子のおかげでしょ。だから何を着てもカッコいいに決まってるよ!」と、手慣れた調子で誉め言葉を返す。
紀康がカードを出して「さっき試着した分、全部いただきます」と店員に伝えた。
「すごーい!」
梨紗が店を離れかけた時、後ろで何人かの若い女性たちが、スマホを持って興奮気味にささやいているのが聞こえた。
「神崎さん、カッコよすぎ!未来の義理の両親にも惜しみなくプレゼントだなんて!」
「それどころじゃないよ!若菜ちゃんの誕生日、初年度はクルーズを見に行ったら、神崎さんがそのままプレゼントしちゃったって!二年目は彼女が遊園地に行きたいって言ったら、まるごと一つ贈ったんだって!三年目は星が欲しいって言ったら、彼女の名前で本当に星を買ったらしいよ!まだ足りないって、今度はプライベートアイランドまで!」
「信じられない!どうしたらあんな大富豪にそこまで愛されるの?」
「それはもう、運命としか言えないよね~!」
彼女たちがこっそり写真を撮ろうとした瞬間、黒服の警備員が素早く近づき、「申し訳ありません、撮影・録音は禁止されています。本日は貸し切りですが、人数が少ないので特別に案内しています。ご協力ください」と静かに制止した。
「すみません、もう撮りません!」
梨紗はそんな羨望の声を背に、苦い笑みを浮かべた。
紀康が早乙女若菜のために毎年大金をかけて祝う「豪華な誕生日」を、誰よりもよく知っている。どれも億単位のお金が動く、まるでお金を使っている感覚すらないように――。
「法的には妻として取り戻せるのでは?」と言う人もいるかもしれない。
だが、紀康の方が遥かに抜け目がなかった。
結婚前の契約にはっきりと、彼の財産はすべて本人の自由裁量に委ねると書かれている。
梨紗には口を挟む権利すらなく、ましてや取り返すなんて不可能だ。
最終的に梨紗は二十万円の腕時計を選び、病院に戻って清和の助手に託してから会社へ戻った。
河田裕亮が心配そうに様子を尋ねる。梨紗は彼に余計な心配をかけたくなくて、曖昧に答えた。
「大丈夫だよ。」
河田は数秒じっと梨紗を見つめ、ため息をついた。
「梨紗、俺たち何年の付き合いだと思ってる?本心を隠してもバレてるよ。」
話題をそらそうとした梨紗のスマホが鳴る――神崎拓海からの電話だった。
「ママ!今夜迎えに来て一緒にご飯食べようよ!」
息子の声には期待が込められている。
梨紗の頭に浮かんだのは、昼間紀康が早乙女若菜たちと一緒に病院や買い物、食事までしていたことだった。夜までそっちに付き合う気なのか。
息子のことはどうでもいいのか、それとも、息子よりも早乙女若菜の家族を優先するのか――。
「ママ?もうすぐ授業始まるよ!」拓海の声が急かす。
梨紗は気持ちを抑え、「うん、迎えに行くよ」と優しく答えた。
電話を切ると河田が眉をひそめた。
「あいつの父親がいるんだろ?どうせ親権争いしないなら、もう少し距離置けばいいのに。無駄に自分を苦しめることないじゃないか。」
河田は拓海の「薄情」な態度にずっと納得できずにいた。
「まだ離婚が成立してない。果たすべき責任はちゃんと果たすよ。」
河田は納得いかないまま頷いた。
梨紗はしばらく迷った後、田中弁護士に電話をかけた。名前は出さず、夫が婚前契約を盾に第三者に浪費している場合、妻に権利はあるのかと相談した。
「このケースだと……契約がある以上、正直かなり不利ですね。」
弁護士は困ったような声を返した。
予想していた答えだったが、それでも梨紗の心は重く沈んだ。
「ただし」と弁護士は補足した。
「旦那さんの親御さんがこれを知れば、特に相手が……放っておかないかもしれませんね。」
梨紗も、義父の神崎宗一郎に伝えようかと考えたことはある。けれど、どう話すか、どんな立場で言うのか、言ったところで何が変わるのか――。
「ありがとうございます。少し考えてみます。」と電話を切った。
まだ定時には早かったが、梨紗は会社を出て拓海を迎えに行くことにした。
車は渋滞で、赤信号の交差点で止まる。
ふと窓の外に目をやると、人混みの中でひときわ目を引く紀康の姿があった。彼はタピオカ店の長い列に並び、じっと順番を待っている――。
梨紗は一瞬、呆然とした。
あの人が、ビジネスの場で決断力を見せ、早乙女若菜には惜しみなく大金を使うあの紀康が……
今は、ただ一杯の