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第51話 あの子の名字は何?


そばにいた少女が何度も後ろを振り返り、その顔には喜びと驚きが隠しきれなかった。

紀康の表情は冷ややかだった。

その光景を見て、梨紗は初めて彼に出会った頃の自分を思い出した。

あの時の自分も、今のあの子のように胸を躍らせていたのだ。

まさか、全身全霊で彼を愛した結果、自分がこんな立場に追い込まれるとは思わなかった。

青信号に変わり、車が動き出したので、梨紗は視線を窓の外へ戻した。

校門の前には見覚えのある保護者たちが集まり、笑顔で梨紗に話しかけてきた。


「今日はあなたがお迎えなの?拓海くんのお父さん、お仕事忙しいのかしら?」


梨紗は心の中で苦笑した。こうした保護者たちは噂話が得意で、入学して間もないのに、もうそれぞれの家庭事情を把握しているのだ。


「はい。」


「よくあなたの元夫があの有名人の早乙女若菜さんと一緒にいるのを見かけるわよ。彼はもう新しい人ができたみたいだけど、あなたは誰か探さないの?」


一度だけ雅彦が付き添って来たことがあったが、その後はいつも梨紗が一人で迎えに来ていたため、皆、離婚後もずっと独り身だと思い込んでいた。


実は梨紗と紀康は正式に離婚したことはなかったのだが、そのことを知る者はいない。


「お子さんがうちの子と同じクラスじゃなかったら、神崎さんが結婚していたなんて誰も気づかなかったでしょうね。でも安心して、口外しませんから。」


梨紗は何と返せばよいか分からず、ただ静かに微笑んだ。


その時、そばの一人が声をひそめて話し始めた。


「さっきね、誰かが早乙女若菜さんのSNSで、神崎さんが彼女のためにタピオカミルクティーを並んで買ってる写真を見たって!」

「神崎さんほどの人が、わざわざ並んでタピオカミルクティーを買うなんて、どれだけ大事にされてるのかしら!」

「しっ、声が大きいわよ。」


みんなの視線が無意識に梨紗の方へ向いた。

梨紗はその会話を耳にしたが、特に気に留めなかった。


ちょうどその時、下校のチャイムが鳴り、気まずい空気が和らいだ。

拓海を迎えに行くと、彼は自分から梨紗の手を握ってきた。

友達と別れる時、何人もの子どもたちが「拓海のママ、きれいだね」と褒めていた。


帰り道、拓海はやけに機嫌が良く、ひっきりなしに話しかけてきた。

幼稚園の頃は、梨紗を見ると逃げるように離れていき、手をつなぐどころではなかった。

梨紗は迷子にならないよう、いつも抱きかかえていたが、それもまるでベビーシッターのようだった。

どれだけ拓海に距離を取られても、母親としての愛情は変わることなく、梨紗はそれを受け入れてきた。

今、拓海が自分から手をつないでくれるようになったのに、逆に梨紗の方がそのぬくもりを求める気持ちが薄れていた。


「今日外食してもいい?家のご飯、もう飽きちゃった。」

「いいけど、油っぽいものや生ものは控えめにね。」

「絶対に言うこと聞くよ!」


いつもなら梨紗が何かしら理由をつけて断るので、拓海はお母さんが素直に許してくれるとは思っていなかった。

最近、お母さんは家にいる時間が少なくなったが、前よりも優しくなった気がしていた。




レストランにて。


「おばさん!」


澄んだ声が梨紗を呼び止めた。


梨紗が振り向くと、にこやかに、「サヤ?偶然ね」と声をかけた。


「今日はおじさんとご飯食べに来たの!一緒に座ってもいい?」

「ごめんね、今日はちょっと……」


梨紗はサヤの家族と親しくなかったため、やんわりと断った。

神崎拓海も、梨紗の服の裾をそっと引っ張り、一緒に座りたくない様子を示した。


「大丈夫だよ!おじさんももうすぐ来るから、紹介するね!」


サヤが元気よく「おじさん、こっちだよ!知り合いに会ったの!」と呼びかけた。


梨紗と拓海がそちらを見ると、見覚えのある男性が現れた。


小野田蕭一はトレイを持ちながら、帽子を深くかぶり、サヤに「声を小さくね、バレたら落ち着いて食べられないから」と言った。


普段とは違うカジュアルな格好だった。


梨紗は少し驚いた。小野田蕭一がサヤの叔父だったとは思わなかったからだ。


サヤは嬉しそうに、「知ってる?この人は神崎拓海。こっちは前に私を助けてくれたおばさんだよ」と紹介した。


小野田蕭一は梨紗を見て、一瞬驚いた表情を浮かべた。


「梨紗さん?」


代役とはいえ、小野田蕭一は一度、早乙女若菜の現場で梨紗を見かけたことがあった。


梨紗の美しさは強く印象に残っていた。芸能界には美人が多いが、代役でここまでの美しさは稀だと思った。


少し手を加えるだけで、早乙女若菜をも凌ぐほどの輝きがあった。


ただ、彼女には一つ問題があった。目立ちすぎるのだ。早乙女若菜よりも存在感が強く、それが小野田蕭一には気に入らなかった。


梨紗は会釈して「こんにちは」と挨拶した。


小野田蕭一もそっけなく「こんにちは」と返した。


サヤはキラキラした目で、「おじさん、知り合いだったの?」と尋ねた。


「うん、知ってるよ。」


小野田蕭一はトレイを置いて食事を取りに行こうとしたが、サヤが腕をつかんで引き止めた。


「おじさん、二人だけじゃつまらないよ!一緒にご飯食べようよ?」

「だめだ。サヤと二人でも目立つのに、さらに二人増えたら、どんな記事を書かれるかわからないだろう。」


小野田蕭一は梨紗に視線を向けて、「ごめん、記者がいるかもしれないから」と言ったが、その口調には全く謝罪の色はなく、むしろ嫌悪感がにじんでいた。


撮影現場で会った時も、小野田蕭一の態度は冷たかったが、梨紗は特に気にしなかった。どうせ他人だからだ。


「気にしないでください。」


梨紗は拓海を連れて、別の席へ移動した。

サヤはがっかりした様子で、小野田蕭一がなだめた。


「サヤ、分かってくれよ。おじさんは有名人なんだ。」

「有名人なんて関係ないよ!みんなで食べた方が楽しいのに!」


サヤは小声でぶつぶつと言った。


小野田蕭一も、融通が全くきかないわけではなかった。本当に写真を撮られたとしても、彼のキャリアなら前もって情報が入ることも多いし、メディアとの関係も悪くなかった。大きなニュースでなければ、一言伝えれば記事を抑えることもできる。


だが、小野田蕭一は梨紗が紀康を見る目が普通でないことを覚えていた。紀康は早乙女若菜の恋人であり、小野田蕭一は早乙女若菜の熱心な支持者だった。


梨紗は二人が恋人同士だと知っていながら、紀康に気がある様子を見せる――そんな品のない人間だと彼は思っていた。


しかも、地味な服装のくせに子どもを連れてこんな高い店に来るなんて、どう見ても見栄っ張りだと感じた。


そう考えると、小野田蕭一はサヤに真剣な表情で言った。


「サヤ、あの人とはあまり関わらないように。」

「どうして?」サヤは納得がいかない。

「今は説明できないけど、とにかくおじさんの言うことを聞いて。」

「でも、あの人が助けてくれなかったら、私、悪い人に連れて行かれてたかもしれないよ!」

「お礼はきちんとするよ。おじさんはサヤのことを思って言ってるんだ、わかるね?」

「でも、神崎拓海とは同じ学校だし、また会うよ!」


サヤは梨紗のことが好きだったので、何とか説得しようとした。


「同じ学校でも、クラスが違えばいいんだよ。」


小野田蕭一はきっぱりと言った。

サヤがまだ何か言い返そうとした時、小野田蕭一がふいに尋ねた。


「さっき言ってたけど、その子の名前、神崎拓海っていうのか?」


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