サヤは夢中で焼き鳥の手羽先にかぶりついている。小さな手は油で光っていて、とても愛らしい。
口いっぱいにほおばりながら返事をする様子も、無邪気そのものだった。
小野田はふと考え込んでいる様子を見せる。
サヤが首をかしげて訊いた。
「どうしたの?」
「彼のお父さんに会ったことは?」
「ううん、ないよ。」
サヤは確かに会ったことがなかった。あの日、神崎拓海の家で紀康がいた時も、怪我をした自分の足のことで頭がいっぱいで、彼のことは見ていなかった。
小野田は首を横に振る。
神崎という名字…あの子は紀康の子ども?紀康が結婚しているなんて聞いたこともないし、梨紗が一方的に好意を持っているだけだろう。
それに、あの紀康が、梨紗に近づくはずがない。もし早乙女若菜がそのことを知ったら、二人はどうなるんだろう?
サヤは時々、梨紗のテーブルの方をちらちら見ていて、明らかに彼女に好感を持っているようだ。
小野田はすぐに口を挟んだ。
「これからは、あの人とはあまり親しくしないようにしなさい。」
「どうして?」サヤは不思議そうな顔で聞く。
「君にはまだ難しいかもしれないけど、あの人は良い人じゃない。」小野田はきっぱりと言い切った。
「良い人じゃない?」
サヤは唇を尖らせ、どうしても信じられない様子だった。
梨紗が神崎拓海の料理を取りに行く途中、小野田とすれ違う。
小野田は梨紗の耳元で小声で囁いた。
「子どもまでいるのに、まだ神崎さんみたいな人を狙ってるのか?子どものためにも、もっとしっかりした態度を見せたらどうだ。」
梨紗は無言のままだった。
小野田は、彼女が反省していないと感じ、さらに声を潜めて続けた。
「何をやっても早乙女若菜には敵わないんだ。君なんか相手にしない。無駄な期待はやめろ。」
梨紗は一歩下がり、距離を取る。
そして小野田をまっすぐ見つめて、
「小野田、少しは常識を持ったら?」
そう言い放ち、料理を持ったまま立ち去った。
小野田はその場に立ち尽くし、梨紗の言葉の意味をしばらく理解できずにいた。
梨紗と息子は先に食事を終え、店を後にした。
隣の高級レストランの前、早乙女若菜と紀康が並んで出てくる。
二人きりでいる様子は、どう見てもデートだ。
だから神崎拓海が電話をしたのだろう——自分と一緒にいたくないから、母親を思い出したのだ。
梨紗が息子を連れて帰ろうとした時、神崎拓海が遠くから二人を見つけて叫んだ。
「パパ!」
梨紗はとくに止めなかった。
神崎拓海は駆け寄って、紀康に抱きつく。
何か言葉を交わし、紀康が梨紗に視線を向ける。
「このあと、家に帰る?」
「帰らない。」
「じゃあ、拓海は連れて帰る。」
梨紗は冷たく答え、背を向けてその場を去った。
神崎拓海は別れの挨拶すら忘れ、早乙女若菜を見つけると、さっそくさっき食べた料理の話を始めた。
梨紗はタクシーを拾い、遠ざかる。
神崎家の別邸に戻ると、神崎拓海はまだ美味しかった料理の話を楽しそうに続けていた。
「パパ、あのお店のバイキングすごく美味しかったよ!早乙女若菜おばさんはドラマの撮影のためにあまり食べられなくて、見ててかわいそうだった。今度、撮影が終わって休みになったら、先に一緒にバイキングに連れて行ってあげたい。その後、他の美味しいものも食べに行こうよ、いいでしょ?」
紀康は微笑んで息子を見つめた。
「いいよ。」
「それに、早乙女若菜おばさんと一緒に海外にも行きたい!海外には楽しいところがいっぱいあるんだよ。前にママに言ったら、海外なんてつまらない、国内の方が楽しいって言われたけど。」
「国内なんて全然楽しくない!海外は空も水もきれいで、ママは行ったことがないから分からないんだよ。」
梨紗が分からないのではなく、本当に海外に出たことがなかった。紀康が出張する時も、連れて行くのは神崎拓海だけで、梨紗は一度も同行したことがない。
もし誘われても、梨紗は国内の方が安全だと思っていた。
一方、何度か父と一緒に海外へ行った神崎拓海は、海外も同じくらい安全だと感じていた。
「早乙女若菜おばさんも、きっと喜ぶよ。」
「ねえパパ、」神崎拓海の目が輝いた。「最近ママが家にいないから、早乙女若菜おばさんを家に住まわせていい?いつも一緒にいたいんだ!」
「だめだ。」紀康は即座に却下した。
神崎拓海は不思議そうな顔で「どうして?」と尋ねる。
「理由はない。もう寝る時間だ。」
そう言って、紀康は拓海を抱き上げ、バスルームへ連れて行った。
二日後、一ノ瀬真治が退院した。
梨紗、河田裕亮、早川思織は、朝から仁愛記念病院で待っていた。
一ノ瀬真治は、孫娘のそばに大切な友人たちがいるのを見て、心から安心している様子だった。
「梨紗は本当にいい友達を持ったな。」と微笑む。
「私たちも幸せですよ。」二人は声をそろえて返す。
一ノ瀬も嬉しそうに笑った。
病室を出たところで、ちょうど紀康と早乙女若菜が家族を連れてやってくるのに鉢合わせする。河田裕亮は素早く体をずらして一ノ瀬真治の視線を遮る。
「おじいさま、家に帰ったらしばらくは安静にしてくださいね。」
「もちろんさ……」
一ノ瀬真治がそう言いかけた時、どこかで聞き覚えのある声がして、河田の背後から見ようとした。
早川思織も慌てて前に立ちふさがる。
一ノ瀬真治はそれ以上何も見なかった。
梨紗と紀康が目を合わせるが、紀康はすぐに視線を逸らし、斎藤医師のオフィスへ向かった。
梨紗は特に心配していなかった。江家の人間が、紀康の前で一ノ瀬真治と親子関係を明かすことは絶対にない。彼らが一番恐れているのは、その事実が明るみに出ることなのだから。
一ノ瀬知代が到着した時、紀康たちはすでにオフィスに入っていた。
無事に一ノ瀬家の邸宅へ戻ることができた。
早川思織は梨紗を見て、「それでも我慢できるの?」とでも言いたげな表情をする。
梨紗はスマートフォンの画面を見せた。
早川思織は最初は分からなかったが、梨紗が藤原翔太と連絡を取り、すべて準備が整っていることを知って、ようやく安心した。
梨紗は祖父の退院を待っていたのだ。
使用人たちに両親の様子をよく見ておくように言い、外部との接触を絶ってから動くつもりだった。
二人の性格からして、こんな騒動を知ったら、また病院に逆戻りになりかねない。
斎藤医師の不正がメディアで報道され、世間は大騒ぎとなった。
決定的な証拠は、藤原翔太が見つけてきた被害者たちの証言だった。彼らの告発によって、斎藤医師の悪事がさらに明るみに出た。
ネット上でも批判が殺到している。
その時、紀康からすぐに電話がかかってきた。梨紗は画面をちらりと見て、携帯を机に伏せた。
気持ちが落ち着かず、電話に出る気にはなれなかった。
しばらくして携帯を手に取ると、着信はもう止まっていて、メッセージだけが残されていた。