早川思織は怒りを抑えきれず、またしても中へ入ろうとしたが、梨紗にしっかりと腕を掴まれた。
「もう行こうよ……」梨紗の声は震えていた。
思織は梨紗の顔を見つめ、これ以上騒げば傷つくのは梨紗だと悟り、大きくため息をついた。
帰ろうとしたその時、早乙女若菜の声がはっきりと響いた。
「紀康は……ずっと上手だったよ」
「おおおお!」中から下品な歓声が上がった。
思織と河田裕亮は同時に梨紗を見た。
彼女は表面上は冷静を装っていたが、顔色は真っ青になっていた。
両手は強く握られ、爪が手のひらに食い込むほどだった。
体はまるで水を吸った木のように硬直している。
思織はそっと梨紗を抱きしめた。
「大丈夫、私たちは何も聞いてない、ね?」
梨紗と紀康が結婚して八年、二人の間にあったのはたった
一度目は神崎拓海を授かった時。彼は薬を盛られ、荒々しく、ただ欲望をぶつけられただけだった。
二度目は、前回の流産の時。あの時は多少優しかったし、技術もあったが、彼は梨紗ではなく早乙女若菜を思い浮かべていた。
他人から見れば、もしかしたら美しい思い出かもしれない。
だが、梨紗にとっては決して口にしたくない屈辱でしかなかった。
屈辱だけでなく、自己否定の念——自分にはそれほど魅力がないのか、八年も触れられないほどなのかと。
それでも、梨紗には友達がいた。
裕亮と思織は、梨紗を予約していた個室に連れて行き、何とかして笑わせようとした。
梨紗も応え、ずっと笑顔を見せていた。
だが、二人にはその笑顔がどれほど無理して作られたものか、すぐに分かった。
その時、裕亮にメッセージが届いた。彼は梨紗に声をかけた。
「梨紗、明日の夜、業界のチャリティーガラディナーがあるんだ。芸能人や大物もたくさん来るみたいだけど、一緒に行かない?」
「行くわ」梨紗は今や脚本家・暁美帆だけでなく、スターライト・メディアの社長でもある。人脈を広げることは不可欠だった。
「了解」裕亮はうなずいた。
梨紗は自分を落ち着かせるため、席を立った。
少し顔を洗って気分を変えようと廊下へ出ると、紀康と早乙女若菜が抱き合っているのを見てしまった。
二人は梨紗に気づいていない様子だった。紀康は早乙女若菜を見つめ、その目には深い愛情が込められている。
「俺の調べたところ、前に出たパーティーで、脚本家の暁美帆先生も何度か来ていたらしい。今、彼女の正体を調べてる。分かったら、すぐに君を会わせるよ」
早乙女若菜は心配そうに、でも嬉しそうに答えた。
「やめてよ。何度も電話してくれてるのに、相手にされてないじゃない。あなたは紀康なんだから、そんな人にこだわることないよ」
「彼女は確かに才能がある。でも一番大事なのは——」紀康は優しい目で続けた。
「君がその脚本を好きなんだろ?君が欲しいなら、俺が何とかしてあげるよ」
早乙女若菜は幸せそうに微笑んだ。
「紀康、いつも私に優しいね。昔、私が仕事に夢中であなたを傷つけてしまったけど、本当に怒ってないの?もしかして、仕返ししてるんじゃないかって不安になるの……」
紀康は彼女の唇に指を当て、親しげに言った。
「そんなこと言わないで。ただ君は仕事に一生懸命だっただけさ。あの時は腹も立ったけど、今は理解してる。君には夢がある。応援したいんだ」
「この数年、俺が君のためにしてきたこと、分かってるだろ?」
「うん……分かるよ」早乙女若菜は恥ずかしそうに答えた。「あなたがいなかったら、私はここまで来られなかった」
「君と一緒に頂点まで行くことができたら、それが俺の……」
「こんなところにいたのか!」突然、酔っ払いが現れ、梨紗に向かって突進してきた。
梨紗はとっさに身をかわし、紀康と目が合った。
その瞬間、紀康の優しい表情は消え、冷たい目だけが残った。
梨紗は考える暇もなく、酔っ払いから逃げようとした。
酔っ払いは最初はふざけたように「かくれんぼか?いい遊びだな!」と笑いながら追いかけてきた。
梨紗は必死に逃げまわる。
何度もかわされて、酔っ払いは逆上し「なんだよ、女のくせに生意気だな!捕まえたらただじゃおかねえぞ!」と怒鳴った。
梨紗はついに壁際に追い詰められ、逃げ場がなくなった。
紀康に助けを求めようとは、最初から思っていなかった——前回の一件で無駄だと分かっていたからだ。
紀康が早乙女若菜を抱いて、何のためらいもなく立ち去るのを梨紗が見たとき、心は完全に冷え切った。
早乙女若菜はわざとらしく「彼女、放っておいて大丈夫なの?」と尋ねた。
「彼女は何でも仕組むから、あの男も彼女の差し金だろう。気にしなくていい」
「もし違ったら?」
「あんな偶然あるわけない。俺の前でなんて。信じるな」
紀康は冷たく言い放ち、さらに足早に去った。
梨紗の心は引き裂かれるように痛んだ。
目の前の酔っ払いよりも、紀康の方がよほど耐えがたかった。
梨紗は何か武器になりそうなものを探したが、その時、裕亮が飛び込んできて、酔っ払いを一発で倒した。
相手が立ち上がれないのを確認し、裕亮は慌てて「梨紗、大丈夫か?」と駆け寄った。
梨紗は何度かこんな目に遭っているが、やはり動揺は隠せず、しかし無理に落ち着いた声で「大丈夫よ。どうしてここに?」と聞いた。
「なかなか戻ってこないから、思織が心配して探しに行こうって。男の俺が行った方がいいと思って」
「ちょうどさっき、紀康がトイレから出てくるのを見たけど、君には気づいてなかったみたいで……」
梨紗は黙り込んだ。
裕亮はすぐに察した。
「見ていたのか?それでも何もしなかったのか?」
梨紗はこの痛みを口にしたくなかった。慰めようとしたその時、裕亮が激怒し、紀康に抗議しに行こうとする。
梨紗は慌てて彼の腕を掴んだ。
「やめて!裕亮、私たちじゃ勝てない。あなたが行っても、もし紀康が本気になったら、私にはあなたを守る力はない!」
「俺はもう、あいつになんて期待してない。安心しろ。今日のこと、いつか必ず償わせてやる!」
裕亮は怒りに震えながら梨紗を見つめた。
その目には、さらに深い哀しみが浮かんだ。
梨紗がこれだけ冷静でいられるということは、こんな目に何度も遭ってきたのだろう。
梨紗はこうして耐えてきたのだ。