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第68話 冷蔵庫の侵入者


「二人がうまくいってほしいって言うなら、どうして離婚に同意しないの?」梨紗が問い返した。


玲奈は目を丸くして、「離婚?そんなこと言い出したの?梨紗、冗談やめてよ!本当にできると思ってるの?」


梨紗は取り合う気もなく前に進もうとしたが、玲奈が強引に腕を引き戻した。


「梨紗、やめときなよ!恥かくだけだって!」


梨紗は玲奈の手を振りほどいた。しかし玲奈はしつこくまとわりついてくる。


うんざりした梨紗が何か言いかけたその時、不意に誰かが勢いよく彼女に近づいてきた。

反応する間もなく、紙箱が無理やり手に押し付けられ、その人物はすぐに姿を消した。


「何この臭い?最悪!」玲奈が大げさに鼻をつまみ、手で扇いだ。


梨紗もすぐに臭いに気づき、不審に思いながら箱を開けてみる。そしてその瞬間、慌てて箱を放り投げた。

床に落ちた箱から、中身の汚物があらわになる。


「うそでしょ!誰がこんなの持ち歩いてるの?」

「しかもこんなとこで投げ捨てて!気持ち悪い!」

「あの女、頭おかしいんじゃない?」


たちまち周囲は騒然となり、玲奈を含め、その場の全員が梨紗から距離を取った。


梨紗は呆然とした。どうしてこんなことをされたのか分からない。ただ、紀康と若菜がこちらを見ている姿が目に入った──紀康は全く動こうとしない。


その場を離れようとした時、誰かが鼻をつまみながら腕を掴む。


「逃げる気?こんなもの撒き散らして、ちゃんと片付けなさいよ!」


周囲からは非難の声が飛び交う。


「そうだよ!こんな都会のど真ん中で、非常識にもほどがある!」

「警察呼んだ方がいいんじゃない?」

「さっさと片付けて!」


直接ぶつけられる非難は、ネットの中傷よりよほど息苦しい。梨紗は玲奈を見たが、玲奈は嫌悪感をあらわにしてさらに数歩後ずさり、口元をしっかり押さえている。


「清掃の人にやらせるつもり?自分で撒いたんだから、自分で始末しなさいよ!恥を知りなさい!」怒りの声が飛ぶ。

「片付けないなら警察呼ぶからね!公共の場を汚すなんて!」


もう聞きたくなかった。梨紗は壊れた紙箱を拾い上げ、慎重に汚物を集めて、こぼさないように気を配りながら歩いた。

通り過ぎるたびに、人々は一斉に距離を置いた。

ゴミ箱に中身を捨てても、冷たい視線は消えない。


思わず紀康と若菜がいた方を見やるが、もうその姿はなかった。

まるで彼女のことなど、どうでもいいとでも言うように。

「ほんと、気持ち悪い!」玲奈は捨て台詞を残して立ち去った。


梨紗は無言でスーパーへ向かった。

道中、梨紗だと気づいた人たちがヒソヒソと指をさす。

梨紗はほとんど弁明しない。それは子供のころからの癖だった。


母が那須太郎と離婚して以降、那須理恵はよく若菜を連れて母を侮辱しに来た。挙句の果てに那須太郎には、母娘が意地悪をしたと嘘を吹き込む。

そうなると那須太郎は怒鳴り込んできた。


若い頃の梨紗は反論しようとしたが、返ってきたのは那須太郎の平手打ちや蹴りだった。

那須太郎は自分が実の父親だという理由だけで、親権が母にあっても「しつける権利がある」と信じていた。

それで梨紗は何度も傷だらけになった。

祖父母が抗議しても、那須太郎は「自分の子を叱るのは当然」と言い張るだけ。

祖父母は理屈の通る人だったが、那須太郎には通じなかった。

やがて梨紗は、反論すればするほど事態が悪化するだけだと悟り、黙るようになった。


スーパーのトイレで何度も手を洗い、ようやく買い物を始めた。

その時、携帯が鳴る。拓海からの電話だった。

さっき外では拓海の姿は見かけなかった。紀康と若菜が「二人きりの世界」を楽しむ時、拓海は連れて行かれない。


梨紗は電話に出なかった。

すると拓海からメッセージが届く。


「ママ、いつ帰ってくるの?会いたいよ」


以前ならすぐに駆けつけて、ギュッと抱きしめてやっただろう。

でも今の拓海は、紀康と若菜が相手をしない時だけ、梨紗を思い出す。


しばらく会っていなかった息子の顔が浮かび、梨紗は「待ってて」とだけ冷たく返した。

拓海からはすぐに「やったー!」のスタンプが返ってくる。

梨紗の表情は変わらない。


さらに約30分後、またメッセージが届く。


「ママ、まだなの?もう30分も経ってるのに!」

「あと10分」

「えー、まだそんなに?」


梨紗はそれ以上返事をしなかった。

すぐに「わかった、ママ!早く来てね!待ってるよ!」と新しいメッセージが届いた。


雲錦荘に着くと、たくさんの荷物を手にしたまま、梨紗はしばらく立ち止まったが、結局そのまま中へ入った。

拓海は荷物いっぱいの梨紗を見ると、嬉しそうに走ってきた。


「ママ!何か美味しいもの買ってきてくれた?なに?」

梨紗は特に何も言わなかった。

拓海は袋をあさったが、お菓子やおもちゃは見つからず、がっかりした顔で言った。

「ママ、もう僕に何も買ってくれないんだ……」


梨紗は冷凍食品をいくつか取り出して、冷蔵庫に入れようとした。

冷蔵庫の扉を開けると、強烈な香水とパックの匂いが広がる──全部若菜のものだった。梨紗はこういうものは使わない。


イライラしてバタンと冷蔵庫を閉め、もう一つの冷蔵庫に向かった。

そちらには若菜の物はなかったので、傷みやすい食材を入れた。


拓海は不思議そうに聞いた。


「ママ、前はこんなの買わなかったのに、体に悪いって言ってたじゃん?」

「あなたのじゃない」

「じゃあ誰の?」

「私のよ」


拓海はきょとんとして、「ママ……もう戻ってこないの?」と戸惑いながら尋ねた。

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