梨紗は息子の言葉には答えず、時計に目をやった。
「もう遅いわよ、まだ寝てないの?」
「え?お母さんが帰っちゃったら、すぐ寝なきゃいけないの?ママ、夏休みなんだから、少しくらい遅く寝てもいいでしょ!」と拓海は不満そうに言った。
梨紗は反論しなかった。これまでは学校があろうとなかろうと、子どもには早寝を徹底させてきた。成長には大事なことだ。
拓海は彼女の手を引っ張る。
「ママ、一緒にレゴで遊ぼうよ!」
松本真紀はそんな親子の様子を見て、心の中でため息をついた。梨紗は日に日に冷たくなっている。でも、それも無理はない。こんなに我慢を強いられて、平気でいられる女性なんているわけがない。彼女はそっとその場を離れた。
しばらく遊んでいると、拓海がふと口にした。
「ママ、初めて気づいたんだけど、レゴは若菜お姉ちゃんよりも、ママの方がずっと上手だよ!」
梨紗は眉をひそめる。嫌な予感が的中した。
止めようとしたが、拓海は続けた。
「この前、若菜お姉ちゃんが家に泊まった時、一緒にレゴしたけど、やっぱりママの方が上手かった!僕、ママと遊ぶのが一番好き!」
梨紗の手が止まった。
家に泊まった?
あの時、若菜は泊まっていったの?
玲奈も神崎雅子も一緒にいたはず。みんな知っていた?
宗一郎だけに隠して、こんなことしていたの?
拓海は彼女の様子に気づき、顔を上げた。
「ママ、どうして手が止まったの?」
「……この前、若菜さんはどの部屋に泊まったの?」
梨紗の声は冷たかった。
拓海は空気を察し、まずいことを言ったと気づいて、うつむき話題をそらした。
梨紗はそれ以上問い詰めなかった。
十一時を過ぎても、拓海はまだ眠る気配がない。
梨紗は立ち上がった。「もう帰るわね。」
拓海は顔を上げた。「ママ!今夜は一緒にいてくれない?」
紀康はまだ帰っていない。きっと今夜は戻らないのだろう。子どもはまだ幼いのに、この仕打ちはあんまりだ。
「ごめんね、ママは用事があるの。」
「ママ……」拓海は涙目で訴えた。
梨紗の心はもう動かない。彼女は決意を変えず、冷蔵庫から自分の荷物を取り出した。
拓海はすぐに彼女の足にしがみついた。
「ママ!ずっと会えなかったんだよ!本当に会いたかったのに!パパもいないし……ママまでいなくなったら、僕、誰にも必要とされない子みたいだよ!お願い、帰らないで!」
梨紗は気持ちを変えなかった。
その騒ぎで松本真紀が目を覚まし、慌ててやってきた。梨紗が帰ろうとしているのも当然だと感じていた。正直、旦那様と坊ちゃまはやりすぎだ。
松本真紀は拓海を引き離した。
「ママには用事があるのよ。ママを行かせてあげて。」
「ママの用事って、家じゃできないの?ママ、全然泊まってくれないじゃないか……ママ、もう僕のこといらないの?」拓海は泣きじゃくった。
「そんなことないわ。ママが拓海くんをいらないなんて、絶対にない。ちゃんと理由があるのよ。」
「うぅ……」
梨紗の胸は締めつけられる思いだった。
どんなに親不孝でも、息子は自分が産んだ子。でも、彼が本当に必要としているのは自分じゃない。梨紗は心を鬼にした。
もう出ようとした時、拓海の泣き声がさらに大きくなった。
「どうした?」低く、聞き慣れた声が不機嫌そうに響いた。
「パパ!」拓海は紀康に駆け寄った。
紀康は梨紗を見ると、顔色が険しくなった。
「梨紗、帰ってこないかと思えば、帰ってきて子どもを泣かせるのか?」
梨紗は怒りを押さえた――紀康はいつも、的確に彼女の怒りをあおるのだ。
松本真紀は助け船を出したかったが、立場上口を挟めなかった。
「ちょうどよかったわ。私も用事があるから、先に失礼するわね。」
梨紗は出て行こうとした。
拓海は紀康にしがみつき、泣き叫んだ。
「パパ!ママに帰らないでほしい!ママと一緒にいたい!」
梨紗は歩みを止めなかった。
紀康は苛立ち、「拓海がこんなに泣いてるのが見えないのか?何をしているんだ!」と叱った。
梨紗は無視して出ていこうとした。
「パパ!」拓海の泣き声はさらに大きくなる。
紀康は息子を引き離し、梨紗に追いついて腕をつかんだ。
梨紗は不意を突かれ、持っていた袋を落とし、中身が床に散らばった。
怒りがこみあげたが、何も言わずにしゃがんで拾い始める。
紀康は冷ややかに言った。
「まだ外で暮らすつもりか?梨紗、俺が盛大に迎えの車でも出せば戻る気になるのか?」
「そんな必要はないわ。」梨紗の声は冷たかった。
「どういうつもりだ?ここを出てどれだけ経つ?さっき拓海があんなに泣いているのに、何も感じないのか?自分は最高の母親だとでも思ってるのか?最近のお前は一体何をしてるんだ?俺に何を怒ってる?」
梨紗は説明する気もなかった。説明しても何も変わらない。
荷物を拾い終え、紀康を見て言った。
「あなたを探したこともあったけど、もういいわ。代役の報酬がこれだけなら、それでいい。」
「私が怒っていると思うなら、それでも構わない。紀康、私はあなたをどうする資格も力もない。」
「でも、もう自分を犠牲にしたくないの。」
そう言い残し、梨紗は背を向けて去って行った。
紀康は呆然とした。自分を犠牲にしたくない?彼女が何を犠牲にしたというのか?
苦労して自分と結婚し、若菜と別れさせ、宗一郎を後ろ盾にして、何をしても悪いのは自分、正しいのは彼女。
自分の子を産み、誰もがうらやむ神崎家の妻となり、贅沢な生活を手に入れて、それでもまだ不満なのか?
いいだろう。帰りたくないなら、勝手にしろ。
紀康はリビングに戻ると、拓海は松本真紀に慰められながら、風呂へ向かっていた。
松本真紀は散らばったレゴを片付けていた。
紀康は組み上がったレゴを見て、「これは拓海が作ったのか?」と尋ねた。
「いえ、奥様が作られました。坊ちゃまは横で見て、時々パーツを渡しただけです。」
紀康は模型を手に取って眺めた。このレゴはかなり難易度が高い。前に若菜が拓海と遊んだ時、自分も見ていたが、若菜は何度も作っては壊し、結局完成できなかった。「パパの腕が治ったら一緒に作ろう。若菜お姉ちゃんには無理だね」と笑っていた。
拓海も色々試したが、やはり難しかった。
それを梨紗は……「彼女、いつ来たんだ?」
「九時過ぎくらいです。」
九時から今まで、わずか二時間でここまで仕上げたのか。
紀康は特に驚きもしなかったが、梨紗にも良いところはあるのだと感じた。
ただ、それだけのことだった。彼の心には何の波紋も生まれなかった。