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第71話 闇の爪と挑発的なパジャマ


梨紗はもう少しで追いつかれそうだった。男が勢いよく飛びかかってくる!彼女は一瞬で護身用スプレーを取り出し、男の目に向かって思い切り噴射した。


「ぐあっ!」男は叫び声を上げて動きが止まる。


梨紗はその隙に必死で逃げ出した。


だが、痛みが少し引いた男は逆上し、再び猛然と追いかけてくる。


梨紗はハイヒールを履いており、とても逃げ切れそうになかった。閑雲荘までは、まだ暗くて街灯もない道が続いている。


背後から強く突き飛ばされ、梨紗は地面に倒れ込んだ。再度スプレーを使おうとしたが、男は素早くそれを奪い取り、遠くへ投げ捨ててしまう。


咄嗟に彼女は叫んだ。


「お金が欲しいんでしょ?いくらでも払うわ!」

「金だと?」男は口元を歪めて笑う。

「そんなもんいらねえよ。俺が欲しいのは、お前が地に落ちる姿だ!今からお前との写真を撮って、神崎さんに送りつけてやる。これで奴を誘惑できなくなるな?」


梨紗は最初、普通の強盗だと思っていたが、男の言葉に心臓が凍りつく。


「あなた、一体誰なの?」

「そんなこと関係ねえ!」男は彼女の服を乱暴に引き裂きながら、低い声で続けた。

「神崎さんにはもう相手がいるんだ。なのに、しつこくまとわりつきやがって、恥知らずが!」


梨紗はすぐに察した。


「まさか、若菜のファン?」

「何言ってんだ?」


男は否定したものの、言動からしてすべてを物語っていた。梨紗には分かった。狂信的なファンは、推しを守るためなら何でもやる。


男の大きな手が彼女を押さえつけ、乱暴な仕草が、かつて受けた俳優からのセクハラの記憶を呼び起こす。封じ込めていた恐怖が一気に蘇った。


彼女は必死に周囲に手を伸ばすが、男は警戒していて、強烈なビンタを見舞った。


「ありがたく思えよ!本当なら俺の最初は好きな女に捧げるはずだった。でもお前が若菜をいじめるから、仕方なくこうしてやるんだ!」


「それは犯罪よ!」梨紗は叫んだ。


「お前も俺も黙ってりゃ誰にもバレねぇよ。今日はきっちり懲らしめてやる!」男は梨紗のズボンを乱暴に引き剥がそうとする。


絶望が梨紗を飲み込んでいく。必死に抵抗するも、全く歯が立たない。まさかこのまま——


その時、眩しいヘッドライトが闇を切り裂き、男の目を直撃した。


「うっ!」男は思わず目を覆い、動きが止まる。


雅彦が車から飛び降り、獣のような鋭さで男を蹴り飛ばし、素早く梨紗を抱き起こして背後にかばった。


「梨紗!無事か?」緊張した声が響く。


「雅彦さん……!」恐怖と安堵が一気に溢れ、梨紗は彼の胸に飛び込んだ。


雅彦は一瞬、体を固くした。梨紗は彼の義理の姪なのだ。


男は形勢不利と見るや、立ち上がって逃げ出した。


雅彦は梨紗の背を軽く叩いた。「ここで待ってて。」そう言うや否や、矢のように男を追いかける。


男も速かったが、雅彦はそれ以上だった。鮮やかな動きで男を取り押さえ、地面に押さえつける。


梨紗は震えながら警察に通報した。間もなくパトカーが駆けつける。


取り調べで、男の正体と動機が判明した。やはり若菜の熱狂的なファンだった。正式に逮捕される。


供述を終えて、梨紗は心身ともに疲れ切っていた。警察たちの視線には、どこか無言の非難が込められている気がした。


世間から見れば、彼女は「身の程知らずで成金に取り入ろうとする女」、自業自得だと。


若い警察官が堪えきれず口を開いた。


「本当は私生活に口出ししたくありませんが、今回のことは相手が悪い。でも、あなたにも反省すべき点があるかと。もし神崎に近づかなければ、こんな目に遭うこともなかったでしょう。今後はもう少し社会に迷惑をかけないようにしてください。」


梨紗は唇を引き結び、反論せずに尋ねた。「もう帰ってもいいですか?」


「私の言葉、分かってもらえましたか?」


それまで黙っていた雅彦が、冷たい声で口を挟む。


「警察さん、彼女と紀康の婚姻関係を調べてから、説教したらどうです?」


雅彦の独特な雰囲気と鋭い眼差しに、警察官も気圧される。


「もういいですか?」と雅彦。


「どうぞ、ご帰宅ください。」


雅彦は梨紗の肩を抱き、怒りを隠さず警察署を後にした。


梨紗は軽く会釈して、後を追う。


背後で、あの警察官が小声でつぶやく。


「余計なこと言ったけど、彼女のためを思ってだよ……善意が裏目に出たな。」


その時、情報を確認していた別の警察官が驚いた声を上げた。


「えっ、信じられない!この神崎さん、正式な奥さんだったんだ!紀康と結婚して八年も!」

「なんだって?」


署内がざわめく。八年も結婚していたのに、公表されていない。その間、紀康と若菜のスキャンダルが絶えず、若菜のために尽くしていたのだ。


ファンでさえ梨紗の存在を知らなかった。被害者は梨紗の方だったのか。


「お金持ちの世界って、本当に理解できない……」


警察署を出ると、梨紗はかすれた声で言った。「雅彦さん、また助けてもらっちゃった。」


雅彦は口元を歪める。


「時々思うけど、俺のバカな甥っ子がどれだけ徳を積んだら、毎回お前の危機に出くわすんだろうな。」


梨紗はしばらく考えて、「もしかして……私の方が徳を積んだのかも。」


「それもそうだな。」雅彦は納得しつつも、険しい顔で続けた。「でも、今回はひどすぎる。紀康に話すつもりはないのか?」


「話したところで、どうせ私が仕組んだと思うだけよ。」


「離婚の話をしたんだろ?あいつはなんて?」


梨紗は黙った。


「お前が注目を集めたいだけだと思ってるんだな?」


梨紗は小さくうなずいた。


「はぁ……まったく。」雅彦は言葉を失い、しばらく沈黙した後、真剣な表情で梨紗を見た。「若菜のファンは、あいつ一人じゃない。もしまた同じことがあったら、どうする?」


「そうね。紀康に直接話すわ。信じてもらえなくても、ちゃんと伝えなきゃ。」


雅彦はため息をついた。「離婚しても仕方ないな。神崎家の男どもは……本当に『神崎』って感じがしない。」


その皮肉に、梨紗は苦笑した。


雅彦は車で梨紗を閑雲荘まで送り届ける。食事に誘われたが、用事があると断った。


彼の車を見送り、梨紗は家に戻った。


翌朝。


梨紗は早めに雲錦荘を訪れた。


リビングに入ると、松本も紀康も見当たらず、代わりに若菜がシルクのナイトガウン姿で、階段の上に現れた。


二人は目が合い、一瞬、時が止まる。

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