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第72話 平手と胸を裂く問い


松本真紀はちょうどキッチンから出てきたところで、この場面に鉢合わせし、慌ててまた厨房に引っ込んだ。


その直後、紀康が部屋から姿を現し、梨紗を見つけると、顔色が一気に険しくなった。


「来る前に一言連絡できないのか?」


梨紗の声は氷のように冷たかった。


「ここは私の家よ。帰りたい時に帰るのに、あなたにいちいち報告する必要がある?」


結婚後、神崎家の別邸『雲錦荘』に住むことになった際、神崎宗一郎の強い希望で、登記名義に梨紗の名前も加えられていた。

何度か梨紗が「名前を外してもいい」と言った時も、紀康は皮肉っぽく言い放った。


「何を今さら。あの時自分でお義父さんに頼んだくせに。お金も使ったのに、今になっていい人ぶってどういうつもり?」


梨紗は登記名義に自分の名前があっても、主人だと思ったことは一度もなかった。でも、今の彼女はもう我慢できなかった。


「この家がどうしてあなたのものになったか、忘れたの?」紀康はさらに彼女を追い詰める。


「どうやって手に入れたかなんて関係ないわ!名前がある以上、私が帰るのは当然よ!それより、」梨紗が若菜を指さす。「どうして彼女がここにいるの?しかもパジャマ姿で?」


「俺が呼んだんだ。」紀康は冷たく答えた。


「私たちはまだ離婚していないのよ?はっきりしない女を家に連れ込むなんて、紀康、さすがにひどすぎるんじゃない?」


紀康の目に険しい光が走り、勢いよく手を振り上げて、梨紗の頬を打った。


「若菜に謝れ!」彼は怒鳴った。


梨紗は思わず顔をそらし、頬に熱い痛みが広がる。耳がジンジンと鳴っていた。


信じられない思いで紀康を見つめる——何年も夫婦でいたけれど、どれだけ言い争っても、彼は一度も手を上げたことがなかった。それなのに、今、若菜のために「家」で、「自分」の前で、彼女を殴ったのだ。


若菜の唇には微かに嘲るような笑みが浮かぶ。


紀康も、打った直後からなぜか苛立ちを感じ、梨紗の驚きと絶望が入り混じった視線をまともに受け止められず、目を逸らすと、冷たく言い放った。


「ここは俺の家だ。誰を呼ぶかなんて俺の勝手だ。梨紗、これ以上みっともない真似はやめろ!」


梨紗の視線は鋭く紀康を射抜き、彼は正面から見つめ返すことができなかった。


すかさず若菜が前に出て、少し怯えたような優しい声で言った。「梨紗さん、誤解です。私は今朝来たばかりで、今日は紀康さんの腕の抜糸の日なんです。そういえば、彼が怪我した時、あなたもいたはずですけど……私、何日か家で紀康さんの世話をしていた時、一度もあなたを見かけませんでしたね……」


梨紗は冷ややかにその芝居がかった態度を見つめていた。


若菜はさらに続ける。


「別に他意はありません。紀康さんが私のために怪我をしたから、付き添うのは当然だと思って。さっき水をこぼして服が濡れてしまって、家政婦さんが洗濯してくれてる間、仕方なくパジャマを借りていたんです……」


説明すればするほど、かえって疑念が深まるばかりだった。


紀康は苛立たしげに遮った。「もういい、無駄口叩くな!」


「紀康さん、」若菜は優しく制した。「彼女はあなたの奥さんなのよ。朝帰ってきてこんな場面を見たら、ショックを受けるのも当然だわ。私のせいで二人の関係を壊したくないだけ。」


だが紀康は、まるで何か証拠を掴んだように梨紗を見据えた。「もしかして、家に監視カメラでも仕掛けてるのか?」


梨紗は唖然とした。「何言ってるの?」


「じゃあ、どうして若菜が来るたび、必ず“偶然”現れるんだ?梨紗、お前、俺のことを監視してるのか?」


あまりの馬鹿馬鹿しさに、梨紗は胸の奥が凍りつく思いがした。しばらくして、ようやく声を絞り出す。


「紀康、今日来たのは、あなたの浮気を問いただすためじゃない。あなたのことなんて、もうどうでもいい。」


必死で感情を抑え、平静を装って告げた。


「伝えておくけど、最近、若菜さんのストーカーのファンからしつこく嫌がらせを受けてるの。糞や死んだネズミ、不気味な物を送りつけられ、昨夜は帰宅途中で強姦されそうになった。雅彦さんが通りかかって助けてくれたわ。」

「警察には通報済み。事を荒立てたくないけど、もしあなたたちがファンを放置するなら、メディアにも公開するつもりよ。」

「脅してるつもりか?」

「言いたいことは終わったわ。」


梨紗は踵を返しかけ、ふと立ち止まって深く紀康を見つめた。「そんなに彼女が大事なら、なぜ私と離婚して彼女と結婚しないの?」


そう言い残して、彼女は毅然とその場を去った。


彼が信じるかどうか、警察に確認しに行くかどうか、もうどうでもよかった。

自分のするべきことは果たした。もし次があれば、彼女はもう容赦しない。


『雲錦荘』を出た直後、梨紗の携帯が鳴った。拓海からだった。


梨紗は少し迷って電話に出る。


「ママ!若菜おばさんに何を言ったの?あんなに泣いてるじゃないか!ママは一体何がしたいの?」


息子の非難に満ちた声が、鈍いナイフのように梨紗の胸をえぐった。


喉が詰まり、電話の向こうで若菜のすすり泣きが微かに聞こえてくる。これほど芝居が上手い人間を見たことがなかった。


「私が何を言えると思う?」梨紗の声はかすれていた。


「何も言ってない?じゃあ、どうして若菜おばさんがあんなに泣いてるの!ママのこと、いいお母さんだと思ってたのに……こんなひどい人だったなんて!ママはおとぎ話の中の一番悪い魔女だ!」


梨紗はそれ以上は聞かず、電話を切った。


深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとするが、胸の痛みは拡がるばかりだった。


自分は一体何をしたのだろう?

被害者は自分なのに、どうして父子二人の口からは、まるで自分が極悪人かのように責められるのか。


その後の仕事中、梨紗は何度もミスをした。

大きな問題ではなかったが、河田裕亮の目には留まった。


「どうした?朝から上の空だな。」ドア枠にもたれかかりながら声をかける。


「何でもないわ。」梨紗は気を取り直そうとしたが、息子の非難が頭から離れず、自己嫌悪に陥っていた。


「またあの最低な父子のせいか?」河田裕亮は部屋に入り、椅子を引き寄せて腰かけ、足を組む。


「君をここまで傷つけるのは、あの二人と、あとはお祖父さんとお祖母さんくらいだからな。お祖父さんは退院したばかりだし、今回はあの父子ってわけか。」


「……しばらくしたら大丈夫。」梨紗は答えた。


「君は何でも一人で抱え込むんだから。」河田裕亮はため息をつく。


「小説でも書いてみたらどうだ?自分の経験を作品にしてネットに出してみなよ。きっと話題になるし、気分も晴れるし、印税だって入る。何百万も稼げば、気分も一気に晴れるだろ?」


その提案に、梨紗はほんの少しだけ気が緩み、苦笑を浮かべた。「よくそんなこと思いつくわね。」


「だって俺、脚本家だからさ。」と河田裕亮は肩をすくめる。「それに、君のネタは面白いよ。本当と嘘がごちゃ混ぜで、リアルでさ。」


梨紗は悪くない提案だと思いながらも、自分の嫌な経験を物語にするのは考えたこともなかった。


だが、朝あれだけの修羅場をくぐったばかりだというのに、紀康から電話がかかってきた。


彼女は出なかった。

すると今度はすぐにメールが届く。


「お父様が来てる。どうすればいいか、わかっているな。」


梨紗は怒りで手が震えた。わかるはずがない、わかりたくもない。でも、神崎宗一郎のこれまでの優しさを思うと、やはり無視できなかった。



その頃、神崎家別邸『雲錦荘』では。


神崎宗一郎は、家政婦に気付かれないよう静かに梨紗の部屋のドアを開けていた。


部屋には薄く埃が積もり、明らかに一人分の生活の跡しか残っていない。ベッドには枕が一つだけだった。


宗一郎は顔を曇らせ、踵を返そうとした。


ちょうど松本真紀がそれを見てしまい、止めようとしたが間に合わなかった。宗一郎の険しい表情に、真紀は緊張で固まった。


「旦那様……」

「教えてくれ。」


宗一郎の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「一体、どういうことなんだ?」

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