松本真紀はちょうどキッチンから出てきたところで、この場面に鉢合わせし、慌ててまた厨房に引っ込んだ。
その直後、紀康が部屋から姿を現し、梨紗を見つけると、顔色が一気に険しくなった。
「来る前に一言連絡できないのか?」
梨紗の声は氷のように冷たかった。
「ここは私の家よ。帰りたい時に帰るのに、あなたにいちいち報告する必要がある?」
結婚後、神崎家の別邸『雲錦荘』に住むことになった際、神崎宗一郎の強い希望で、登記名義に梨紗の名前も加えられていた。
何度か梨紗が「名前を外してもいい」と言った時も、紀康は皮肉っぽく言い放った。
「何を今さら。あの時自分でお義父さんに頼んだくせに。お金も使ったのに、今になっていい人ぶってどういうつもり?」
梨紗は登記名義に自分の名前があっても、主人だと思ったことは一度もなかった。でも、今の彼女はもう我慢できなかった。
「この家がどうしてあなたのものになったか、忘れたの?」紀康はさらに彼女を追い詰める。
「どうやって手に入れたかなんて関係ないわ!名前がある以上、私が帰るのは当然よ!それより、」梨紗が若菜を指さす。「どうして彼女がここにいるの?しかもパジャマ姿で?」
「俺が呼んだんだ。」紀康は冷たく答えた。
「私たちはまだ離婚していないのよ?はっきりしない女を家に連れ込むなんて、紀康、さすがにひどすぎるんじゃない?」
紀康の目に険しい光が走り、勢いよく手を振り上げて、梨紗の頬を打った。
「若菜に謝れ!」彼は怒鳴った。
梨紗は思わず顔をそらし、頬に熱い痛みが広がる。耳がジンジンと鳴っていた。
信じられない思いで紀康を見つめる——何年も夫婦でいたけれど、どれだけ言い争っても、彼は一度も手を上げたことがなかった。それなのに、今、若菜のために「家」で、「自分」の前で、彼女を殴ったのだ。
若菜の唇には微かに嘲るような笑みが浮かぶ。
紀康も、打った直後からなぜか苛立ちを感じ、梨紗の驚きと絶望が入り混じった視線をまともに受け止められず、目を逸らすと、冷たく言い放った。
「ここは俺の家だ。誰を呼ぶかなんて俺の勝手だ。梨紗、これ以上みっともない真似はやめろ!」
梨紗の視線は鋭く紀康を射抜き、彼は正面から見つめ返すことができなかった。
すかさず若菜が前に出て、少し怯えたような優しい声で言った。「梨紗さん、誤解です。私は今朝来たばかりで、今日は紀康さんの腕の抜糸の日なんです。そういえば、彼が怪我した時、あなたもいたはずですけど……私、何日か家で紀康さんの世話をしていた時、一度もあなたを見かけませんでしたね……」
梨紗は冷ややかにその芝居がかった態度を見つめていた。
若菜はさらに続ける。
「別に他意はありません。紀康さんが私のために怪我をしたから、付き添うのは当然だと思って。さっき水をこぼして服が濡れてしまって、家政婦さんが洗濯してくれてる間、仕方なくパジャマを借りていたんです……」
説明すればするほど、かえって疑念が深まるばかりだった。
紀康は苛立たしげに遮った。「もういい、無駄口叩くな!」
「紀康さん、」若菜は優しく制した。「彼女はあなたの奥さんなのよ。朝帰ってきてこんな場面を見たら、ショックを受けるのも当然だわ。私のせいで二人の関係を壊したくないだけ。」
だが紀康は、まるで何か証拠を掴んだように梨紗を見据えた。「もしかして、家に監視カメラでも仕掛けてるのか?」
梨紗は唖然とした。「何言ってるの?」
「じゃあ、どうして若菜が来るたび、必ず“偶然”現れるんだ?梨紗、お前、俺のことを監視してるのか?」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、梨紗は胸の奥が凍りつく思いがした。しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「紀康、今日来たのは、あなたの浮気を問いただすためじゃない。あなたのことなんて、もうどうでもいい。」
必死で感情を抑え、平静を装って告げた。
「伝えておくけど、最近、若菜さんのストーカーのファンからしつこく嫌がらせを受けてるの。糞や死んだネズミ、不気味な物を送りつけられ、昨夜は帰宅途中で強姦されそうになった。雅彦さんが通りかかって助けてくれたわ。」
「警察には通報済み。事を荒立てたくないけど、もしあなたたちがファンを放置するなら、メディアにも公開するつもりよ。」
「脅してるつもりか?」
「言いたいことは終わったわ。」
梨紗は踵を返しかけ、ふと立ち止まって深く紀康を見つめた。「そんなに彼女が大事なら、なぜ私と離婚して彼女と結婚しないの?」
そう言い残して、彼女は毅然とその場を去った。
彼が信じるかどうか、警察に確認しに行くかどうか、もうどうでもよかった。
自分のするべきことは果たした。もし次があれば、彼女はもう容赦しない。
『雲錦荘』を出た直後、梨紗の携帯が鳴った。拓海からだった。
梨紗は少し迷って電話に出る。
「ママ!若菜おばさんに何を言ったの?あんなに泣いてるじゃないか!ママは一体何がしたいの?」
息子の非難に満ちた声が、鈍いナイフのように梨紗の胸をえぐった。
喉が詰まり、電話の向こうで若菜のすすり泣きが微かに聞こえてくる。これほど芝居が上手い人間を見たことがなかった。
「私が何を言えると思う?」梨紗の声はかすれていた。
「何も言ってない?じゃあ、どうして若菜おばさんがあんなに泣いてるの!ママのこと、いいお母さんだと思ってたのに……こんなひどい人だったなんて!ママはおとぎ話の中の一番悪い魔女だ!」
梨紗はそれ以上は聞かず、電話を切った。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとするが、胸の痛みは拡がるばかりだった。
自分は一体何をしたのだろう?
被害者は自分なのに、どうして父子二人の口からは、まるで自分が極悪人かのように責められるのか。
その後の仕事中、梨紗は何度もミスをした。
大きな問題ではなかったが、河田裕亮の目には留まった。
「どうした?朝から上の空だな。」ドア枠にもたれかかりながら声をかける。
「何でもないわ。」梨紗は気を取り直そうとしたが、息子の非難が頭から離れず、自己嫌悪に陥っていた。
「またあの最低な父子のせいか?」河田裕亮は部屋に入り、椅子を引き寄せて腰かけ、足を組む。
「君をここまで傷つけるのは、あの二人と、あとはお祖父さんとお祖母さんくらいだからな。お祖父さんは退院したばかりだし、今回はあの父子ってわけか。」
「……しばらくしたら大丈夫。」梨紗は答えた。
「君は何でも一人で抱え込むんだから。」河田裕亮はため息をつく。
「小説でも書いてみたらどうだ?自分の経験を作品にしてネットに出してみなよ。きっと話題になるし、気分も晴れるし、印税だって入る。何百万も稼げば、気分も一気に晴れるだろ?」
その提案に、梨紗はほんの少しだけ気が緩み、苦笑を浮かべた。「よくそんなこと思いつくわね。」
「だって俺、脚本家だからさ。」と河田裕亮は肩をすくめる。「それに、君のネタは面白いよ。本当と嘘がごちゃ混ぜで、リアルでさ。」
梨紗は悪くない提案だと思いながらも、自分の嫌な経験を物語にするのは考えたこともなかった。
だが、朝あれだけの修羅場をくぐったばかりだというのに、紀康から電話がかかってきた。
彼女は出なかった。
すると今度はすぐにメールが届く。
「お父様が来てる。どうすればいいか、わかっているな。」
梨紗は怒りで手が震えた。わかるはずがない、わかりたくもない。でも、神崎宗一郎のこれまでの優しさを思うと、やはり無視できなかった。
*
その頃、神崎家別邸『雲錦荘』では。
神崎宗一郎は、家政婦に気付かれないよう静かに梨紗の部屋のドアを開けていた。
部屋には薄く埃が積もり、明らかに一人分の生活の跡しか残っていない。ベッドには枕が一つだけだった。
宗一郎は顔を曇らせ、踵を返そうとした。
ちょうど松本真紀がそれを見てしまい、止めようとしたが間に合わなかった。宗一郎の険しい表情に、真紀は緊張で固まった。
「旦那様……」
「教えてくれ。」
宗一郎の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
「一体、どういうことなんだ?」