梨紗は、一瞬自分が部屋を間違えたのかと思った。しかし、ここが自分の部屋であり、すでにきれいに掃除されていることを確かめて、ようやく納得した。
「何を突っ立ってるの?君が望んだことじゃないか。」
紀康の声には皮肉が滲み、梨紗の触れられたくない心の弱い部分を鋭く突いた。
梨紗は近づきながら言った。
「お父様はもうお休みになったわ。あなたがどの部屋で寝てるかなんて知らない。」
「本当に知らないのか?使用人が伝えないとでも?」
紀康の目は鋭かった。
「つまり、私が松本さんに言わせたってこと?」梨紗の胸が締め付けられる。
「自分でやったことだろう」 彼は冷たく鼻で笑い、手に取った本に視線を落とした。
梨紗は予備の寝具を取りに向かう。
「どこへ行く。」
紀康が鋭く問いかける。
「ソファで寝る。」
「父さんは夜中にトイレに起きることもあるんだ。君がソファに追い出されてるのを見て、俺がこっぴどく叱られたらどうする?」
梨紗は動きを止め、無言で冷たい床に寝具を広げて横になる。そしてスマートフォンを手に取り、脚本のラストを書き直し始めた。
紀康はもう何も言わなかった。
どれくらい経ったのか、梨紗はいつの間にか眠りに落ちていた。
深夜、けたたましい着信音が静寂を切り裂いた。紀康が電話に出る。梨紗は聞いたことのない優しい声色だった。
「お父様?…悪い夢を見たの?大丈夫だよ、お話をしてあげようか?」
その優しさに、梨紗はついに堪えきれず声を上げた。
「紀康!ここにはもう一人いるのよ!」
「ここは俺の家だ!」
紀康は一瞬で声色を冷たくし、反論の余地を与えなかった。
梨紗の怒りは、その一言で一瞬にして消え去った。彼はずっと気にしている――この家の半分は、梨紗が「計算高く」手に入れたものだと。譲ったのは彼の意思、得たのは梨紗の罪。
紀康は平然と電話の向こうの若菜をあやし、彼女が落ち着くまで話し続けてから、ようやく電話を切った。
梨紗はもう眠気が消えていた。長年の子育てで身についた癖で、一度夜中に起きるとなかなか眠れない。スマートフォンの画面を見つめ、再び眠くなる瞬間を待った。
「梨紗!スマホの画面が眩しすぎる!」
紀康が苛立った声をあげる。
梨紗は黙っていた。
「寝ないで何してる?明日父さんに何を告げ口するか考えてるのか?」
それでも梨紗は口を開かなかった。
「無視するつもりか?」
声には怒りがにじんでいた。
梨紗はただ滑稽だと思った。話せば文句を言われ、黙れば冷たくされる。彼の満足は一体どこにあるのだろう。
昔は彼を愛していたから、どんなことでも合わせてきた。今はもう、そんな必要はない。
まさか紀康がベッドを降りてきて、彼女のスマホを無理やり取り上げようとするとは思わなかった。
「何するの!」
梨紗は驚きと怒りで声を上げる。
「君のせいで眠れないんだぞ!」
紀康は当然のような口ぶり。
「あなたこそ…」
言い終わらぬうちに、もみ合いで紀康の体がバランスを崩し、梨紗の上に倒れ込んだ!
二人の目が合い、一瞬空気が固まる。
紀康はじっと梨紗を見つめ、その目には何か深いものがあった。
先に我に返ったのは梨紗だった。彼を押しのけようとするが、両手はしっかりと押さえつけられている。
紀康もようやく我に返り、何事もなかったかのようにさっと起き上がる。
「明日は大事な会議がある。もう邪魔しないでくれ。」
梨紗の胃がひっくり返るような不快感が襲ってくる。もう我慢できず、バスルームへ駆け込み、彼に触れられた部分を必死に洗い、新しいパジャマに着替えてようやく落ち着いた。
「俺が嫌なのか?」
紀康の声には怒りが混じっていた。
「寝れば?」
梨紗の声は冷たかった。これでもう一時間近く経っている。彼女はただ少しでも眠りたかった。
紀康は驚いた。彼女がこんなにも強く反抗するとは。
怒りを抑えきれない様子だったが、梨紗が背を向けて目を閉じてしまったため、彼も仕方なくベッドに戻った。
翌朝、二人が部屋を出たのはいつもより一時間も遅かった。
神崎宗一郎は、慌てて身支度する二人を見て、にこやかに言った。
「慌てなくていい。拓海はもう送ってあるよ。」
――完全に二人が遅く起きた理由を勘違いしている。
梨紗と紀康は、互いに目を合わせて、何も説明しなかった。
神崎宗一郎はまだ朝食を取っておらず、三人でテーブルにつく。
「二人とも忙しいだろうけど、たまには映画を見たり、街に出かけたりしなさい。拓海も連れていけばいい。家族三人で過ごすのはいいことだよ。」
「分かりました、お父様。」
紀康は父親には逆らわない。
その時、紀康のスマホが音を立てた。梨紗は隣にいたため、着信表示が一瞬見えた――「ダーリン」。
胸がチクリと痛んだ。若菜からの電話は、ほとんど毎時間かかってくる。
紀康はすぐに切った。
「どうして出ないんだ?」
神崎宗一郎が尋ねる。
「セールスです。」
紀康は平然と答えた。
それ以上、神崎宗一郎は聞かなかった。
朝食後、二人は仕事に出かける準備をしていた。
「梨紗、自分で運転しなくていい。紀康に送ってもらいなさい。帰りも迎えに行かせる。拓海は私が迎えに行くよ。今まで一度も迎えに行ったことがないから。」
梨紗は黙っていた。紀康は眉をひそめた。
「お父様、迎えを頼んでありますが……」
「私が行くと言ったんだ。拓海もきっと喜ぶだろう。」
梨紗は紀康の気遣いが分かった――他の保護者の目を気にしているのだ。
梨紗は紀康の車の助手席に乗った。シートベルトの脇には、紀康と若菜のプリクラが新しくぶら下がっている。グローブボックスを開けずとも、中には若菜の小物がたくさん詰まっていることは想像できた。
吐き気が込み上げる。梨紗は後部座席に移ろうとしたが、玄関先で神崎宗一郎が見ているのに気づき、無理に笑顔を作って手を振った。
車が少し走ったところで、梨紗は「ここで降ろして」と頼んだ。
紀康は冷たく横目で見て言った。
「また何だ?この辺りは監視カメラだらけだ。父さんに下車したのがバレたらどうする?面倒を起こすな。」
車内には若菜の香水の甘ったるい匂いが充満し、息苦しくなる。
「車を変えてもらえない?」
梨紗の声は震えていた。
「梨紗、どういうつもりだ?」
紀康の声には危うさがあった。
梨紗はもう争う気力もなかった。車を変えても、神崎宗一郎に理由を問われるだけだ。どの車にも、若菜の痕跡は残っているのだから。
どうにかして会社にたどり着き、車を降りた瞬間、生き返ったような気分になった。
ちょうどその時、神崎宗一郎から電話がかかってきた。
「お父様、どうしました?」
「紀康に会社まで送ってもらったか?」
「ええ、送ってもらいました。」
「いや、大した用じゃないんだ。もうすぐ誕生日だから、体調も良くなったし、盛大に誕生日パーティを開きたいと思ってね。準備を手伝ってもらえないか?無理なら家の者に任せてもいい。」
神崎宗一郎は少し間を置いて、穏やかだが揺るぎない口調で続けた。
「もう八年だ、梨紗。誕生日の席で、君の本当の身分を公にしたいんだ。」