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第75話 嵐


梨紗は冷たい指先でスマートフォンを握りしめていた。神崎宗一郎の「自分の身分を公表しろ」という一言が、まるで雷鳴のように頭の中で響き渡る。しばらく声が出なかった。


電話越しの神崎宗一郎は、梨紗に断る隙さえ与えなかった。


「準備の時間は取れるか?」

「私は……」

「どうやら無理そうだな。分かった、家の者にやらせる。それじゃあ、君は仕事を続けてくれ。」


梨紗が返事をする間もなく、電話は一方的に切られてしまった。


そこへ河田裕亮がやってきて、梨紗の顔色が悪いのに気づき、声をかけた。「どうかしたのか?」


梨紗は神崎宗一郎が身分公開を提案したことを簡単に説明した。


「そんなの絶対ダメだ!」河田はすぐさま反対した。


「みんなに紀康と結婚してて、子どももいるって知られたら、離婚後に再婚なんて難しくなるだろ?」


梨紗はそこまで考えていなかった。結婚当初からずっと隠してきたのに、終わりが近づいた今さら公にする必要はない。神崎宗一郎の狙いは、誕生パーティーを利用して最後の仲介をしようということに他ならない。


だが、そんなことをすれば若菜の面目は丸つぶれ、下手をすればキャリアだって壊れてしまう。神崎宗一郎は若菜のことなんて気にも留めていないが、梨紗は他人を巻き込むやり方に本能的な拒否感を覚えた。


「どうするつもりだ?」


「……また考えるよ。」梨紗の声は疲れていた。


二人はオフィスに戻り、脚本の打ち合わせを続けることにした。


昼が近づいた頃、受付の女性が慌てた様子で誰かを連れて駆け込んできた。


「社長!止められませんでした!」


梨紗が顔を上げると、誰かがすごい勢いで近づいてきて——


「バシッ!」鋭い平手打ちが梨紗の頬を強く打ちつけた。


ほぼ同時に、河田裕亮が素早く反応し、さらに大きな音で来訪者——玲奈の頬を平手打ちした。


受付の女性はショックで口を押さえた。


頬に火がついたような痛みが走るが、梨紗は怒りを抑え、低い声で言った。「出ていきなさい。今日のことは誰にも言わないで。ドアもちゃんと閉めて。」


受付の女性はほっとした様子でその場を離れた。


怒りに満ちていた玲奈は、河田裕亮に公然と平手打ちされてさらに逆上し、叫びながら梨紗に飛びかかろうとした。


河田が袖をまくり、鋭い目で睨む。「梨紗、止めなくていいぞ!今日こそこの女を懲らしめてやる!」


梨紗はすぐに二人の間に割って入った。「やめて!」


「梨紗!この恥知らず!」玲奈は梨紗を指さして罵声を浴びせた。「雅彦まで誘惑しておいて、今度はこの男とまで!いったい何人の男と寝てきたの?本当に気持ち悪い!」


梨紗は冷ややかな視線で玲奈を見返す。その目はまるで氷のようだった。


「何よ、その目は?間違ったこと言った?あんたなんて尻軽女じゃない!兄があんたを相手にしない理由、わかる?汚いからよ!」


「バシッ!」


今度は梨紗が全力で玲奈の頬を打った。


「よくやった!」河田が喝采を送る。


玲奈は頬を押さえ、信じられないといった顔で叫んだ。「あんた、私を殴ったの!?梨紗、よくも!」


彼女はさらに飛びかかろうとするが、河田がすかさず止めに入り、梨紗と一緒になって玲奈を押さえ込んだ。


もみ合いの末、玲奈の髪は乱れ、みっともない姿になった。彼女は二人を指さして怒鳴りつける。「梨紗、覚えてなさい!今すぐ兄を呼んでやる!あんたたち、ただじゃおかない!」


河田は鼻で笑った。「兄貴が何だっていうんだ?この世のすべてを牛耳れるとでも思ってるのか?」


「いずれ分かるわよ!梨紗、今日は警告しに来たのよ!お父様に自分の身分を公表しろなんて、よく言えたものね!」


「甥っ子はあんたが仕組んで手に入れたくせに!神崎家はあんたをそれなりに扱ってきたのに、ここまで図々しくなるなんて!世間に知られたいとでも?」


「笑わせないで!私の兄嫁は若菜だけよ。あんたなんて、沈忌お父様がいなければ、とっくに家から追い出されてたはずよ!」


「八年も経つのに、兄はあんたにちっとも未練なんてない!さっさと出ていけばいいのに、まだ身分を公表したいなんて、恥知らずにもほどがある!」


「自分のやり方が明るみに出て、みんなからどう思われるか、怖くないの?」


河田は我慢できずに言い返した。


「よく聞けよ、バカ女!梨紗はとっくにお前の兄貴に離婚を申し出てんだよ!しつこくサインしないのはお前の兄貴の方だ!何でもかんでも梨紗のせいにするな!お前の兄貴なんか、梨紗はもうとっくに興味ないんだよ!」


「は?離婚?笑わせないで!」玲奈は大声で笑い出した。「梨紗、お前が兄と別れるわけないでしょ?」


「兄を特別だと思ってるみたいだけど、結婚しておいて若菜とコソコソ付き合ってる時点で、ただのクズだよ!」


「兄を侮辱するな……」玲奈はさらにヒートアップした。


梨紗はもう相手にせず、内線を押した。「警備員さん、この女性をお引き取りください。」


すぐに二人の警備員がやってきて、まだ罵声を浴びせる玲奈を強引に連れ出した。廊下には彼女の下品な叫び声が響き続けた。


河田はまだ怒りが収まらない。「なんで追い出したんだよ?俺はまだ殴り足りなかったのに!本当に最低だな、あいつ!」


梨紗はこめかみを押さえながら言った。「落ち着いて。紀康が本気で潰しにきたら、冗談じゃ済まないよ。」


河田は一気にしぼんだようになり、しばらくしてから梨紗の顔を見て、後悔の色を滲ませて言った。「梨紗……俺、余計なことしてしまったかな?」


梨紗は彼を一瞥し、ため息をついた。「もういいよ。大丈夫。」


河田は何か言いかけたが、結局黙り込んだ。顔には申し訳なさが浮かんでいた。


紀康の報復は、迅速かつ容赦なかった。


これまで順調に進んでいた複数の取引先から、ほぼ同時に契約解除の通知が届く。どれももっともらしい理由を並べているが、実際は梨紗と河田側の問題として扱い、違約金の請求もなかった。


いくら説明しても無駄だった。相手は断固として譲らない。


あっという間に、「スターライト・メディア」以外のすべての取引先が手を引いた。このニュースは業界内に瞬く間に広まった。


誰もが、「スターライト・メディア」までもが最後の一撃を加えるのか注目していたが、先方からは何の反応もなかった。


ただ、唯一残ったその取引先も進行中のプロジェクトは不安定で、先行きは暗いままだ。


河田は何日もろくに眠れず、濃いクマを作った顔で梨紗を見る。「ごめん、梨紗……全部俺のせいだ。」


梨紗は何も言わなかった。


そばにいた早川思織がすぐに口を挟んだ。「河田さん、そんなこと言わないでよ!梨紗はあなたを責めてないよ。私だってあんなことされたら絶対やり返してた!神崎家がやりたい放題なのに、こっちが黙ってる必要なんてないじゃない!」


河田は苦笑した。「でも、この代償は……大きすぎるよ。」


「口座の残高は?『スターライト・メディア』から何か連絡あった?」早川が尋ねる。


河田は梨紗の方を見た。「スターライト・メディア」の上層部が梨紗に連絡したかどうかは誰も知らなかった。


梨紗自身も、相手の本音がつかめず、心に大きな重圧を感じていた。


その時、不意に梨紗のスマートフォンが鳴り響いた。


画面には「雅彦」の文字が浮かび上がっていた。


梨紗の心臓が、一瞬大きく跳ね上がった。

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