梨紗は冷たい指先でスマートフォンを握りしめていた。神崎宗一郎の「自分の身分を公表しろ」という一言が、まるで雷鳴のように頭の中で響き渡る。しばらく声が出なかった。
電話越しの神崎宗一郎は、梨紗に断る隙さえ与えなかった。
「準備の時間は取れるか?」
「私は……」
「どうやら無理そうだな。分かった、家の者にやらせる。それじゃあ、君は仕事を続けてくれ。」
梨紗が返事をする間もなく、電話は一方的に切られてしまった。
そこへ河田裕亮がやってきて、梨紗の顔色が悪いのに気づき、声をかけた。「どうかしたのか?」
梨紗は神崎宗一郎が身分公開を提案したことを簡単に説明した。
「そんなの絶対ダメだ!」河田はすぐさま反対した。
「みんなに紀康と結婚してて、子どももいるって知られたら、離婚後に再婚なんて難しくなるだろ?」
梨紗はそこまで考えていなかった。結婚当初からずっと隠してきたのに、終わりが近づいた今さら公にする必要はない。神崎宗一郎の狙いは、誕生パーティーを利用して最後の仲介をしようということに他ならない。
だが、そんなことをすれば若菜の面目は丸つぶれ、下手をすればキャリアだって壊れてしまう。神崎宗一郎は若菜のことなんて気にも留めていないが、梨紗は他人を巻き込むやり方に本能的な拒否感を覚えた。
「どうするつもりだ?」
「……また考えるよ。」梨紗の声は疲れていた。
二人はオフィスに戻り、脚本の打ち合わせを続けることにした。
昼が近づいた頃、受付の女性が慌てた様子で誰かを連れて駆け込んできた。
「社長!止められませんでした!」
梨紗が顔を上げると、誰かがすごい勢いで近づいてきて——
「バシッ!」鋭い平手打ちが梨紗の頬を強く打ちつけた。
ほぼ同時に、河田裕亮が素早く反応し、さらに大きな音で来訪者——玲奈の頬を平手打ちした。
受付の女性はショックで口を押さえた。
頬に火がついたような痛みが走るが、梨紗は怒りを抑え、低い声で言った。「出ていきなさい。今日のことは誰にも言わないで。ドアもちゃんと閉めて。」
受付の女性はほっとした様子でその場を離れた。
怒りに満ちていた玲奈は、河田裕亮に公然と平手打ちされてさらに逆上し、叫びながら梨紗に飛びかかろうとした。
河田が袖をまくり、鋭い目で睨む。「梨紗、止めなくていいぞ!今日こそこの女を懲らしめてやる!」
梨紗はすぐに二人の間に割って入った。「やめて!」
「梨紗!この恥知らず!」玲奈は梨紗を指さして罵声を浴びせた。「雅彦まで誘惑しておいて、今度はこの男とまで!いったい何人の男と寝てきたの?本当に気持ち悪い!」
梨紗は冷ややかな視線で玲奈を見返す。その目はまるで氷のようだった。
「何よ、その目は?間違ったこと言った?あんたなんて尻軽女じゃない!兄があんたを相手にしない理由、わかる?汚いからよ!」
「バシッ!」
今度は梨紗が全力で玲奈の頬を打った。
「よくやった!」河田が喝采を送る。
玲奈は頬を押さえ、信じられないといった顔で叫んだ。「あんた、私を殴ったの!?梨紗、よくも!」
彼女はさらに飛びかかろうとするが、河田がすかさず止めに入り、梨紗と一緒になって玲奈を押さえ込んだ。
もみ合いの末、玲奈の髪は乱れ、みっともない姿になった。彼女は二人を指さして怒鳴りつける。「梨紗、覚えてなさい!今すぐ兄を呼んでやる!あんたたち、ただじゃおかない!」
河田は鼻で笑った。「兄貴が何だっていうんだ?この世のすべてを牛耳れるとでも思ってるのか?」
「いずれ分かるわよ!梨紗、今日は警告しに来たのよ!お父様に自分の身分を公表しろなんて、よく言えたものね!」
「甥っ子はあんたが仕組んで手に入れたくせに!神崎家はあんたをそれなりに扱ってきたのに、ここまで図々しくなるなんて!世間に知られたいとでも?」
「笑わせないで!私の兄嫁は若菜だけよ。あんたなんて、沈忌お父様がいなければ、とっくに家から追い出されてたはずよ!」
「八年も経つのに、兄はあんたにちっとも未練なんてない!さっさと出ていけばいいのに、まだ身分を公表したいなんて、恥知らずにもほどがある!」
「自分のやり方が明るみに出て、みんなからどう思われるか、怖くないの?」
河田は我慢できずに言い返した。
「よく聞けよ、バカ女!梨紗はとっくにお前の兄貴に離婚を申し出てんだよ!しつこくサインしないのはお前の兄貴の方だ!何でもかんでも梨紗のせいにするな!お前の兄貴なんか、梨紗はもうとっくに興味ないんだよ!」
「は?離婚?笑わせないで!」玲奈は大声で笑い出した。「梨紗、お前が兄と別れるわけないでしょ?」
「兄を特別だと思ってるみたいだけど、結婚しておいて若菜とコソコソ付き合ってる時点で、ただのクズだよ!」
「兄を侮辱するな……」玲奈はさらにヒートアップした。
梨紗はもう相手にせず、内線を押した。「警備員さん、この女性をお引き取りください。」
すぐに二人の警備員がやってきて、まだ罵声を浴びせる玲奈を強引に連れ出した。廊下には彼女の下品な叫び声が響き続けた。
河田はまだ怒りが収まらない。「なんで追い出したんだよ?俺はまだ殴り足りなかったのに!本当に最低だな、あいつ!」
梨紗はこめかみを押さえながら言った。「落ち着いて。紀康が本気で潰しにきたら、冗談じゃ済まないよ。」
河田は一気にしぼんだようになり、しばらくしてから梨紗の顔を見て、後悔の色を滲ませて言った。「梨紗……俺、余計なことしてしまったかな?」
梨紗は彼を一瞥し、ため息をついた。「もういいよ。大丈夫。」
河田は何か言いかけたが、結局黙り込んだ。顔には申し訳なさが浮かんでいた。
紀康の報復は、迅速かつ容赦なかった。
これまで順調に進んでいた複数の取引先から、ほぼ同時に契約解除の通知が届く。どれももっともらしい理由を並べているが、実際は梨紗と河田側の問題として扱い、違約金の請求もなかった。
いくら説明しても無駄だった。相手は断固として譲らない。
あっという間に、「スターライト・メディア」以外のすべての取引先が手を引いた。このニュースは業界内に瞬く間に広まった。
誰もが、「スターライト・メディア」までもが最後の一撃を加えるのか注目していたが、先方からは何の反応もなかった。
ただ、唯一残ったその取引先も進行中のプロジェクトは不安定で、先行きは暗いままだ。
河田は何日もろくに眠れず、濃いクマを作った顔で梨紗を見る。「ごめん、梨紗……全部俺のせいだ。」
梨紗は何も言わなかった。
そばにいた早川思織がすぐに口を挟んだ。「河田さん、そんなこと言わないでよ!梨紗はあなたを責めてないよ。私だってあんなことされたら絶対やり返してた!神崎家がやりたい放題なのに、こっちが黙ってる必要なんてないじゃない!」
河田は苦笑した。「でも、この代償は……大きすぎるよ。」
「口座の残高は?『スターライト・メディア』から何か連絡あった?」早川が尋ねる。
河田は梨紗の方を見た。「スターライト・メディア」の上層部が梨紗に連絡したかどうかは誰も知らなかった。
梨紗自身も、相手の本音がつかめず、心に大きな重圧を感じていた。
その時、不意に梨紗のスマートフォンが鳴り響いた。
画面には「雅彦」の文字が浮かび上がっていた。
梨紗の心臓が、一瞬大きく跳ね上がった。