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第76話 屈辱の交渉と休憩室でのまなざし


梨紗は少し離れた場所で雅彦からの電話に出た。


河田と早川は緊張した面持ちで梨紗の背中を見つめていたが、その穏やかな様子からは何も読み取れなかった。


「俺……紀康に謝りに行った方がいいかな。」河田がためらいがちに立ち上がる。


「やめときなよ!あんた、その性格じゃ謝りに行くってより、また揉め事になるでしょ?」早川はすぐに彼を引き止めた。


河田は自分の短気な性格を思い出し、確かに火に油を注ぐだけだと納得して、しょんぼりと座り直した。


梨紗が電話を切って戻ってきたが、表情には相変わらず何の感情も浮かんでいない。その静けさが逆に周囲を不安にさせる。


早川が焦り気味に尋ねる。「梨紗、どうなったの?こっちは生きた心地しないんだけど!」


「雅彦さんが言うには、スターライトメディアは資金を引き上げないそう。でも、一社だけじゃプロジェクト全体を支えきれない。他の取引先は紀康に潰されて、資金の穴は自分たちで埋めるしかないって。」


二人はほっと胸をなでおろした。少なくとも、最悪の事態は避けられたのだ。


だが、悪い知らせが続いた。いくつもの会社から、様々な理由で契約を打ち切る連絡が次々と入る。


スタジオの空気は一気に重苦しくなった。


その時、撮影中の小田監督から電話がかかってきた。


「暁美帆先生、どうやら資金繰りで問題が出ていると聞きましたが?」


「小田監督、現場は心配せず撮影に集中してください。資金のことはこちらで何とかします。」梨紗はきっぱりと言い切る。


「分かりました。困ったことがあれば、遠慮なく言ってください。」


「ありがとうございます。」


梨紗は大きく息を吸い込み、自分を奮い立たせた。「みんな、落ち込まないで。案ずるより産むが易しって言うでしょ。打開策はきっとあるから。」


その時、河田がふと思い出したように言った。「高橋青石は?前に協力したいって言ってたけど、彼からも断りの連絡が来た?」


梨紗はやっと高橋の存在を思い出した。「いいえ、特に連絡はなかった。でも、もともと深く話が進んでなかったし、彼の方からも何も言ってこないってことは、暗黙のうちに断ったってことね。」


河田も納得した。高橋は紀康と親しいのだから、わざわざ紀康の反感を買ってまでこちらに協力するはずがない。


スタジオは重苦しい沈黙に包まれた。


梨紗は皆の目を盗んで、ひとり神崎財閥グループへと向かった。


警備員は梨紗のことをよく知っており、社長と特別な関係にあることも承知していたので、何も言わずに通した。


だが、受付の女性は困った表情を浮かべる。「神崎さん……恐れ入りますが、社長へはご自身でご連絡いただけますか?」


梨紗はスマートフォンを取り出しかけて、ふと手を止めた。「固定電話をお借りしてもいいですか?」


「もちろんです。」


梨紗は慣れた手つきで番号を押した。紀康のプライベート番号は頭にしっかり入っていて、スマホで確認する必要もなかった。


受付のふたりが顔を見合わせる。社長の私用番号を覚えているなんて、ただの知り合いではないに違いない。


すぐに電話がつながった。


「今、下にいる。会いたい。」


梨紗は冷静な声でそう告げた。


何か返事があったのだろう、彼女は電話を切り、受付に向かって「上まで案内してもらえますか」と頼んだ。


受付のひとりが無言でエレベーターまで案内した。


最上階で秘書が迎えてくれた。どこか好奇心を含んだ視線だった。若菜以外でこのオフィスに入る女性は、梨紗が初めてだったのだ。秘書はドアの前まで来ると、そのまま去った。


梨紗はドアを押して中に入り、静かにドアを閉めた。


紀康のオフィスは広くて豪華、200平米はゆうにある。だが、梨紗はそれを気に留める余裕もなく、話を切り出そうとした――


「紀康、誰か来たの?」


若菜がシルクのネグリジェ姿で、内側の休憩室から出てきた。髪は乱れ、まるで甘いひとときを過ごした後のようだ。若菜は梨紗を一瞥し、まるでそこにいないかのように振る舞う。


「ランチ、もう届いた?お腹すいちゃった~」と甘えた声。


「もうすぐだ。ちょっと確認する。」紀康は実に優しい口調で、梨紗の存在を完全に無視して内線で秘書に確認を入れる。


間もなく、気まずそうな様子の秘書がランチを持ってきて、そそくさとその場を離れた。


「食べないの?」若菜が尋ねる。


「君が先に食べなさい。」紀康の声は、梨紗に向けるものとは全く違う、ひどく柔らかい。


愛情の有無は、これほどまでに明らかだ。


「冷めたら胃に悪いよ?」若菜は心配そうな顔をする。


「大丈夫。先に休憩室で食べてて。僕は少し用事を済ませるから。」紀康はなだめるように言う。


若菜は得意げに梨紗を見やり、ランチボックスを持って休憩室へと戻る。その際、「じゃあ、早く来てね。待ってるから」と念を押すのも忘れない。


「分かった。」紀康は短く応じた。


梨紗は、こんな場面を何度も目撃してきた。「私の立場は?」と詰め寄ったこともあったが、彼の答えはいつも「これがお前への報いだ」だけだった。今となっては、心が波立つこともない。


「紀康、今日は河田のことで来たの。」梨紗は本題に入る。「彼が玲奈に手を上げた。私が代わりに謝るから、スターライトメディアへの嫌がらせはやめて。」


「スターライトメディアの代表は君だったっけ?」紀康は皮肉な口ぶりで言う。彼は梨紗と話す時、いつもどこかで見下している。


梨紗は、彼が全て調べ上げていることなど驚きもしなかった。


「そうよ。」


紀康は冷たく笑った。


「珍しいな。今回はお父様を使わず、直接僕に頼みに来たのか?いつもはお父様を持ち出して僕に圧力をかけるのが好きだろ?」

「お父様の誕生日会だって、盛大にやるよう仕向けたのは君だし、自分の身分をみんなの前で明かしたかったんだろう?」

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