「お父さん!」
紀康が何か言いかけたが、宗一郎はそれを許さなかった。
「お前が不満に思ってるのは分かってる。でもこれはお前のためだ。お前の気持ちは俺にはお見通しだ。」
宗一郎は重い口調で続けた。
「お前は反発しているように見せて、実はもう梨紗のことを意識してる。自分じゃ気付いてないだけだ。本当に後悔したくないなら、今のうちに考え直せ。どうしても嫌なら、それも運がなかったと思うしかない。」
少し間を置き、声を和らげる。
「言うべきことは全部言った。納得できなくても仕方ない。お前のせいで皆まだ食事もしてない。家で食べるか、外で食べるか、好きにしろ。」
そう言い終えると、宗一郎は声を張った。
「梨紗と拓海を呼んで、食事にしよう。」
「はい。」
四人が席につくと、食卓には重苦しい沈黙が漂った。
紀康の携帯が何度も鳴ったが、そのたびに宗一郎がじっと見てくるので、紀康はすべて無視して切った。
この食事は、息が詰まりそうなほど重苦しかった。雰囲気があまりにも硬直していたせいか、梨紗も拓海もほとんど箸をつけなかった。
梨紗は途中で席を立とうとも思ったが、宗一郎の言葉を思い出し、結局最後まで残った。
食事の後、梨紗は拓海のもとへ向かった。拓海は不機嫌そうな顔をして、まるで梨紗がとんでもないことをしたかのようだった。
以前の梨紗なら、すぐに不安になって問いただしただろう。でも今は静かに座っているだけだった。
拓海が先に口を開いた。
「ママ、わざとやったんでしょ?」
梨紗はきょとんとした顔で見つめ返す。
「パパが若菜おばさんと食事してるって知ってて呼び戻したんでしょ?ふたりが仲良くするのが嫌だったんでしょ?」子どもの声には責める色がにじむ。
「ママ、心が狭すぎるよ。若菜おばさんはそんなことしないし、ママが何してもいつもかばってくれるのに。ママ、ひどくない?」
梨紗はしばらく黙って拓海を見つめた。拓海は気まずそうに目をそらす。
「拓海、若菜さんにママになってほしいの?」
「なってほしい!」拓海は即答した。
心臓が刺されるような痛みを覚えつつも、梨紗は必死に平静を装った。
「じゃあ、パパに言って。離婚届にサインしてもらえば、若菜さんがママになれるよ。」
「離婚するの?」
初めて聞く話ではなかったが、今回は梨紗の本気を感じたのか、拓海の声にはどこか軽蔑が混じっていた。「本当にそんなこと決められるの?」と言いたげだった。
梨紗は自分の無力さを痛感し、深く息を吸い込んで拓海を見据えた。
「うん、ずっと前からそうしたいと思ってた。」
「後悔するなよ!」拓海は顎を上げ、父親そっくりの高慢な表情を見せた。
「後悔しない。」
「僕はママと一緒に行かないから。」
「大丈夫。連れて行くつもりはないよ。」
拓海は口を開きかけ、目元が一瞬潤んだ。
もうすぐ八歳になる拓海には、自分の意思がある。梨紗はそれ以上争う気にはなれなかった。
「今の、約束だよ。嘘ついたらダメ。」
「うん。」
ふたりはそのまま黙り込んだ。
梨紗はもうここにいる理由もないと感じ、静かに立ち上がって部屋を出た。
途中で紀康とすれ違ったが、何も言わずに自分の部屋へ戻った。
三十分ほどして、部屋のドアが開き、紀康が入ってきた。後ろ手でドアを閉める。
梨紗はカーペットの上に横たわったまま、目も開けなかった。
紀康は彼女の前まで来ると、足でそっと梨紗の足首に触れた。
梨紗は眉をひそめ、明らかな不機嫌を目に浮かべた。
紀康は少し驚いた様子だった。こんな反応は予想していなかったのだろう。
「話がある。」
梨紗は視線を外し、何か思い出したように身を起こす。
「いいよ、どうぞ。」
「拓海に離婚すると言ったら、子どもがどれだけ傷つくか分かってるのか?」紀康の声は先ほどよりも静かだったが、責める気持ちは隠していなかった。
「君が母に離婚届を渡したと言い、息子にも伝えた。梨紗、結婚して八年、たとえ一緒にいる時間が短くても、君の考えぐらい分かるよ。」
「正直に言えば、父さんを呼んだのも君だろ?」
紀康は冷たく笑う。「俺と若菜がうまくいってるのが不安になって、父さんまで巻き込んで、誕生日会まで用意させた。そんなことで、俺が君を見ると思ってるのか?」
「甘えるなよ。俺たちはお互い干渉しなければ平和だった。君が父さんの命を救ってくれたことは感謝してる。でも、欲をかきすぎた。もし君が俺をはめなければ、こんなことにはならなかった。」
梨紗が反論を試みるよりも早く、彼は言葉で塞いだ。梨紗がじっと見つめ返しても、それさえも反抗の証拠だと言わんばかりだった。
「君のやり方は俺には通用しない。」紀康は立ち上がる。「俺が離婚したいと思った時は、いつでもできる。その時になって、後悔しても遅い。」
そう言い捨てて部屋を出ようとした。梨紗に反論の余地を一切与えなかった。
梨紗が言いかけた途端、紀康が突然床に倒れ込んだ。
一瞬何が起きたか分からず、慌てて近寄る。
「紀康!紀康!」
何度呼んでも反応はない。
一瞬、このまま放っておこうかという考えが頭をよぎったが、宗一郎のことが気になり、結局その場を離れなかった。
宗一郎に知られないように、梨紗は主治医の日下(クサカ)を呼び、静かに来てほしいと念を押した。
電話を切ると、梨紗は倒れたまま動かない紀康を見つめ、無理に動かして悪化させるのを恐れ、そのままそばで待つしかなかった。
幸い、日下はすぐに来てくれた。
何度か顔を合わせたことのある日下に、梨紗は簡単に挨拶し、状況を説明した。
日下はうなずいて、「その判断は正しいです。状況が分からない時は、無理に動かさない方がいい。」と答えた。
彼が紀康の診察を始める間、梨紗は黙ってその様子を見つめていた。