しばらくして、日下はようやく立ち上がった。
「過労だね。それに、前回の腕の怪我が治りきらないうちに復帰して、最近はインフルエンザも流行ってる。いろいろ重なって倒れたんだろう。これから熱が出るかもしれないから、よく見てあげてほしい。」
薬を出したあと、丁寧に看病の注意点を伝えてから帰っていった。
梨紗は、二人がかりでベッドに運ばれた紀康を見つめながら、ここを出ようとした。だが、宗一郎がまだ下にいることを思い出す。
本当に出て行っても宗一郎は責めないだろうけど、見捨てていくのも自分にはできない――まるで紀康のやり方みたいで。
その時、枕元のスマホが突然震え、「♡」と表示された。若菜からだとすぐ分かる。
本当は出たくなかったが、何度も鳴り続け、イライラさせられる。
結局、梨紗は電話を取った。
「もしもし?」
「……梨紗?」
相手は明らかに戸惑っている。
梨紗は、相手の表情が簡単に想像できた――前に自分が紀康に電話した時も、きっと若菜は同じ反応だったはずだ。
「もう遅いけど、何か用?」
「紀康は? 代わって。」
ベッドの紀康に目をやると、顔が赤くなり始めていた。息をしていなかったら、大事になっていたかもしれない。
「もう寝てるわ。今は出られない。」
しばらく沈黙が続き、若菜の声が冷たくなった。
「紀康に何をしたの? 彼があなたに関心がないって分かってるのに、無理に関わったらますます嫌われるだけよ。梨紗、紀康が目を覚ましたらもっと嫌がられるのが怖くないの?」
「彼は体調を崩しただけ。日下先生も過労だって言ってた。なぜそんなに働きすぎたか、あなたのほうが分かってるんじゃない?」
梨紗は淡々とした口調で続ける。
「余計な詮索はやめて。私も彼の世話なんてしたくないし、あなたが来てくれたら助かるわ。全部あなたの手柄にしてあげる。」
そう言って一方的に電話を切った。相手の呼ぶ声にも振り返らない。
本心から若菜に来てほしかった。紀康とは名字だけの夫婦で、実際はもう形だけの関係だ。
宗一郎さえいなければ、とっくに出ていったはず。
紀康の熱がますます上がってきたので、梨紗は日下の指示通り、冷たい水でタオルを絞り、額に当てて体温を下げようとした。
ベッド脇に座りながら、ふと出会った頃を思い出す。
あの頃は話が尽きなかった。毎日が楽しくて、まるで心が通じ合う相手に出会えた気がした。
もしも――
「若菜……若菜……」
紀康が突然うわ言のように呟き出し、梨紗の思考は中断された。
「行かないで……」
梨紗の手が空中で止まり、胸の奥に苦さが広がる。
本当に若菜のことが好きなんだろう。自分はもう諦めたはずなのに、なぜこんなに苦しまなきゃいけないのか。
胸が重く、息苦しくなる。タオルを置いて、急いで部屋を出た。背後にはまだ紀康のかすかな寝言が響いていた。
――私は何なんだろう。
外でしばらく佇み、夜風が身に染みて寒くなってから、ようやく部屋に戻った。
紀康はすでに静かになっていたが、熱は下がっていなかった。
再びタオルで冷やそうとした時、突然手首を掴まれ、勢いよく引き寄せられる。
梨紗は驚きで固まった。
「……ごめん……」紀康が低く呟く。
梨紗の体が強張る。すぐに気づいた――これは若菜に謝っているのだと。
謝られても、自分の居場所ができるわけじゃない。堂々と一緒にいられるわけでもない。ただの罪悪感だろう。
梨紗は力いっぱい紀康を振りほどき、タオルを洗面器に放り込むと、そのまま部屋を出て二度と戻らなかった。
翌朝、宗一郎が目を覚ますと、ソファで丸くなって眠る梨紗を見つけて驚いた。声をかけようとしたが、やめてしまう。
梨紗はゆっくりと目を開け、すでに使用人たちが動き始めていることに気づく。時間を見ると、いつもより遅く起きたようだ。
昨夜なかなか眠れなかったせいか、まだ少しぼんやりしていたが、宗一郎の姿を見るとすぐに意識がはっきりした。
「お父様。」
宗一郎はそのまま立ち去ろうとしたが、梨紗の声に振り返る。
「どうしてここで寝てるんだ?紀康とケンカでもしたのか?」
「いいえ。彼が熱を出して、昨夜ずっと看病してました。今どうなってるか分からないけど……」
「熱を?」宗一郎は顔を強張らせ、すぐに部屋へ向かった。
梨紗はこめかみを押さえながら後を追う。
昨夜はもう放っておいたけど、薬も時間通り飲ませたし、冷やし続けたし、大丈夫なはず……
宗一郎が部屋のドアを開けると、紀康はまだベッドに横たわっていた。宗一郎は手の甲で紀康の額に触れて、次に自分の額と比べてみる。
「お父様、あまり触らないでください。うつってしまうかもしれませんし、お身体も強くないんですから……」
梨紗は急いで宗一郎を止めに入った。
騒がしさに紀康が目を覚まし、ぼんやりとした目で言った。「父さん……どうしてここに?」
「梨紗から具合が悪いと聞いたんだ。朝、ソファで彼女が寝てるのを見て、ケンカでもしたのかと思ったよ。昨夜は遅くまで看病してたんだろう?」
宗一郎は一度言葉を切り、紀康の腕に目を落とす。「その腕、どうした?怪我してるのか?」
普段から長袖を着ている紀康の怪我を、宗一郎が見るのは初めてだった。
雅子も玲奈も、良いことしか報告しないので何も知らなかった。
紀康は腕を布団の中に隠し、視線をそらした。「大したことありません。ちょっとぶつけただけです。」
「これは切り傷だろう。ごまかすな。」宗一郎は表情を険しくした。
「何があった?お母さんや玲奈は知ってたのか?」
紀康は答えず、思わず梨紗の方を見る。
「こっちを見るな。梨紗は何も言ってない。」宗一郎は冷たい声で言う。
「彼女はただ、あんたが熱を出してるとだけ教えてくれた。だからすぐに来たんだ。」
紀康は視線を戻し、何か言おうとしたその時、スマートフォンが鳴り出す。
梨紗はすぐに「♡」と表示された画面を見て、宗一郎もちらりと目をやって眉をひそめた。
紀康はそのまま電話を切った。
「なぜ私の前で出ない?」宗一郎の声は厳しい。
「誰からだ?」