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第82話 彼が気にしなければ、若菜も自ら行動することを嫌がらない


「迷惑電話だ。」

「こんな朝早くから迷惑電話なんてあるのか?」

紀康は黙ったままだった。


「昨夜は梨紗がずっとあなたのそばにいて、ほとんど眠れなかったのよ。あなたが昔のことにまだこだわっているのはわかるけど、後悔するようなことはしてほしくない。どうしたいかは自分で決めなさい。もう子供じゃないんだから、私が言えることは全部言ったわ。あとは自分で考えて。」


そう言い終えると、宗一郎は部屋を出て行った。

梨紗もそれに続いた。


宗一郎は振り返り、しみじみとした口調で言った。「ありがとう、梨紗。」

梨紗は首を振った。「いいんです、お父さん。」


拓海が起きて、学校へ行く準備をしていた。

梨紗は家で紀康と顔を合わせたくなかった。彼の前では、何をしても間違いにされてしまう気がしたからだ。そこで、自分から拓海を学校まで送ると申し出た。


普段、拓海は運転手付きの専用車で通学している。

梨紗も一緒に車に乗り込んだが、拓海は浮かない顔をしていた。


「お母さん、今日は一人で学校に行きたいんだ。」

「ちょうどいいわ、私は途中の駅で降りるから。」


拓海は驚いた様子で、梨紗の顔をじっと見た。

まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。

車内は静まり返った。

梨紗は特に話しかけることもなく、学校のことも尋ねなかった。

昔のように、母親からあれこれ聞かれることもなく、むしろこの静けさが心地よかった。


その時、スマートフォンの着信音が車内の静けさを破った。

拓海はこっそり梨紗の様子をうかがいながら、電話を切った。

だが、またすぐに電話が鳴り、再び梨紗の反応を見てから、しぶしぶ電話を取って小さな声で話し始めた。


「もしもし、若菜おばさん?分からないよ、聞いてないし。今朝はお父さん見てないから、てっきりそっちにいるのかと思った。お父さんが病気?分かった、伝えてくれてありがとう。」


拓海はスマートウォッチの通話を切ると、険しい表情で梨紗を見た。

「お父さんが病気なのに、なんで教えてくれなかったの?」

梨紗は何も答えなかった。

その態度に、拓海はますます不満を募らせた。

「お父さんが倒れたの、もしかしてお母さんが――」

言いかけたところで、梨紗は窓の外を見ながら運転手に話しかけた。

「ここで降ります。」


車が止まると、梨紗は拓海の問いかけには応じず、そのまま車を降りてしまった。

拓海は怒りをあらわにしながらも、前の運転手に「出していいよ」とだけ伝えた。


ちょうどその場面を、小野田蕭一が通りかかった。

間違いなく、梨紗は紀康の車から降りてきた。

紀康の車はナンバーの頭が88で、後ろの数字が違うのが特徴だ。見ればすぐに神崎家の車だとわかる。

梨紗がこんな朝早くに神崎家の車から降りてきたということは、昨夜は紀康と一緒だったのか?

もしかして、彼女は紀康を落とすことに成功したのか?


小野田蕭一が撮影現場に着くと、若菜がすでに来ていた。顔色はひどく疲れていて、まるで一晩中眠れなかったかのようだった。

普段ならいつもそばにいるはずの紀康が来ていない。やはり想像した通りなのかもしれない。

「大丈夫?顔色が良くないけど。」小野田蕭一は心配そうに声をかけた。


若菜は小野田蕭一の気持ちを察しており、彼が声をかけてくることも予想していた。

来た時から、周囲の視線を感じていたので、わざと大きな声で言った。

「紀康が体調を崩して、今日は来られないの。」

皆は納得した様子で、疲れた顔の若菜を見て、昨晩は紀康の看病をしていたのだろうと思った。

これまで、紀康ばかりが尽くしている印象だったが、実は若菜も支えていたことが分かり、二人の関係に感動する人も多かった。


だが、小野田蕭一の疑念は深まるばかりだった。

紀康が具合悪いなら、若菜が看病するはずなのに、どうして梨紗が神崎家の車に乗っていたのか。

もちろん、若菜にはそんなことは言えない。彼女を傷つけたくなかったし、もし勘違いだったら二人の関係にヒビが入るかもしれない。


その時、監督がやってきた。

「今日は最初のシーンがキスシーンだ。小野田君、若菜のキスダブルは用意できてるけど、君のほうはどうする?自分でやる?それともダブルを使う?」

「僕は連れてきました。」


小野田蕭一に似た体格の男性が歩いてきた。

監督は一目見て満足げにうなずき、二人にメイクルームへ行くよう指示した。


若菜は小野田蕭一から送られた視線にすぐ気付いた。

彼はできれば自分で演じたいし、若菜にも本当に出演してほしいと思っているのだろう。

だが、それは無理だ。紀康が気にするはずだから。

もし紀康が気にしないのなら、若菜自身は自分でキスシーンを演じることに抵抗はなかった。


梨紗は会社に一番乗りし、裕亮が来た時にはすでに仕事を始めていた。

「今日はやけに早いな。」と裕亮が不思議そうに尋ねる。

梨紗は「うん」とだけ返し、説明せずにそのまま仕事を続けた。


その時、アシスタントが入ってきて二人に伝えた。

「今夜、文化庁主催のアート交流会がありますので、出席をお忘れなく。」

裕亮はすっかり忘れていたらしく、「どんなレベルの会なの?招待状を見せて」と手を伸ばした。

アシスタントが招待状を差し出す。

裕亮はそれを受け取ると、数日前に届いていたことを思い出した。アシスタントに言われなければ、きっと忘れていただろう。


「梨紗、この招待状がもらえるなんて、普通のことじゃない。会社にとってもチャンスになるかもしれない。」

梨紗もすっかり忘れていたが、重要なことだと認識した。

「分かりました。ありがとう、もう下がっていいわ。」とアシスタントに言った。

アシスタントはうなずいて部屋を出て行った。


午後、梨紗は宗一郎に電話をかけ、「今夜は付き合いがあるので、夕食はいりません」と伝えた。

そのあと、ドレスショップへ向かった。

これまでのパーティーとは違い、今回は格式の高い場だった。

梨紗は上品な和服を選び、日本女性のしなやかさと芯の強さを見事に引き立てていた。

裕亮は和洋折衷のスーツを着こなし、二人並ぶ姿は実に絵になった。


会場では、ちょうど若菜をエスコートしてきた中村和生と青石が、二人の姿に驚いた。

「なんであの二人がここに?」と中村和生が目を丸くする。

若菜も驚いたが、すぐに合点がいった。

「リチャードが国からの招待状を手に入れたんだと思うわ。」

それなら納得できる。

梨紗には知名度も実力もない。自力で入れるはずがないから、リチャードをうまく説得して一緒に来たのだろう。


青石は何も言わず、黙っていた。

中村和生は面白がって、「リチャードだって、梨紗を中には入れられないんじゃないか?」と囁いた。

こんな会は、一人一枚の招待状が必須で、自分たちだっていろいろなコネを使ってやっと入れたほどだ。

以前は紀康の分も一枚あったが、この宴は国が選んだ重鎮や本物のアーティストしか招かれないと、数日前から噂になっていた。

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