裕亮は思わず梨紗に目をやった。
彼女の表情は変わらず、まるでこうしたことには慣れているか、あるいは本当に気にしていないかのようだった。
福澤隆二は親しみやすい笑顔で若菜と握手した。
「君のことは知っているよ。和生から何度も話を聞いた。とても優秀な女優だね。うちの妻も君の出演作品が大好きで、新作が出るたびに必ず一番に観ているよ。」
若菜は予想していたかのように穏やかに握手を返した。
彼女は中村和生と目を合わせる。和生は満面の笑みで、まるで若菜が自分の恋人であるかのようだった。
「お褒めいただきありがとうございます。まだまだ未熟ですので、これからも精進します」と若菜が答える。
福澤隆二は紳士らしく、軽く手を握ってすぐに離した。
「謙遜しなくていい。ここまで来られたのは実力があってこそだ。スキャンダルもなく、芸能界の中でも貴重な存在だよ。今日ここに来てくれたのは、君が本当に芸術を愛している証拠だ。期待しているよ、若い人。」
若菜は微笑みながら、何気なく梨紗に視線を送った。
梨紗はまるで聞こえていないかのように、何の反応も見せなかった。
若菜は心の中で理解していた。さっきまでどれだけ多くの人が梨紗の周りに集まっていたとしても、福澤隆二は別格だ。彼と挨拶を交わしたことで、今後自分に近づいてくる人も多くなるはずだ。
さきほど梨紗に寄ってきた人たちも、結局は彼女の祖父の顔を立てていただけで、本気で仕事を一緒にしたいわけではないだろう。
福澤隆二には他にも用事があると察した若菜は、礼儀正しく一礼して場を離れ、近くで老練な俳優たちが声をかけてくれるのを待つことにした。
しかし、しばらく待っても誰も声をかけてこない。
逆に梨紗が福澤隆二と楽しそうに話しているのが目に入った。
中村和生は若菜と同じことを考えていた。「絶対、梨紗が福澤さんを誘惑してるんだ。」
青石がちらりと彼を見た。
和生はその意図を読み違えたまま、続けた。
「だろ?梨紗は最近どんどん図々しくなってる。紀康さんが来ないのをいいことに、あちこちで男を引っかける気なんじゃないか。紀康さんに気づいてもらえない腹いせだろう。」
若菜は焦り始めた。なぜ誰も自分に近づいてこないのか。紀康が来ていないからだろうか?
思い切って自分から老俳優たちに話しかけても、相手は一応返事をしてくれるものの、梨紗への態度とは明らかに違った。
きっと梨紗が自分に嫉妬して、陰で悪口を言っているに違いない。
そう思うと、逆に若菜は落ち着きを取り戻した。
やがて皆、梨紗の本当の姿に気づくはずだ。
宴も終わりに近づいた頃、会場の入口から一人の男が入ってきた。
その場にいた全員が振り返る。梨紗も裕亮もその方向を見た。
中村和生が手を振る。「紀康さん、こっちです!」
紀康は足早にこちらへ向かってくる。
梨紗は眉をひそめた。彼は体調を崩していたはず。明らかに具合が悪そうなのに、なぜ来たのだろう?
すぐに理由が分かった。もちろん若菜のためだ。
他のパーティーでは常に注目の的だった若菜も、この場では冷遇されていた。ここにいるのは年配で実力を持った芸術家たち。若菜も力はあるが、まだ彼らには及ばない。
紀康は本当に若菜のことを気にかけていて、愛が深いのだと梨紗は思った。
裕亮は思わず梨紗の腕を取ろうとした。梨紗が首を振ろうとしたその時、紀康が彼女の前で立ち止まった。
梨紗だけでなく、その場の全員が驚いた。
中村和生も呆然としている。「どういうこと?」
紀康は彼女に軽く会釈し、微笑みさえ浮かべてから若菜のほうへ歩いていった。
裕亮は混乱気味に「あれ…紀康さん、今、君に笑いかけた?」と尋ねた。
梨紗は彼を見て、静かにうなずいた。
裕亮も梨紗も、紀康には何度も会っているが、彼が梨紗に笑いかけることなどこれまでなかった。まるで夢でも見ているかのようだった。
「梨紗、油断しちゃだめだよ。紀康さん、きっとまた何か仕掛けてくるつもりなんじゃないか?」と裕亮が念を押す。
梨紗は静かに首を振った。「そんなことないわ。」
周りも皆驚いていた。紀康はずっと梨紗を抑えつけてきたはずなのに、どうして今、彼女に微笑んだのか。商売人の考えることは本当に分からない。何か新しい手を考えているのかもしれない。
若菜たちの位置からは、紀康が梨紗に何をしたのか分からない。和生たちは当然のように、紀康が梨紗を睨みつけて黙らせたのだと思い込んでいた。
紀康が近づいてきたので、和生は嬉しそうに「体調悪いのに来てくれるなんて、やっぱり若菜の魅力だね」と言った。
若菜は微笑みながら、紀康の行動に満足している様子だったが、口では「紀康さん、私のことで無理しないで。いつも現場か会社で休む暇もないのに、病気なのにわざわざ来てくれて。和生さんや青石さんも手伝ってくれてるから大丈夫よ」と言った。
紀康は二人の仲間に軽く会釈した。言葉は要らない、これからも助け合えばいい。
彼は若菜にあまり近づかず、「心配で、様子を見に来た」とだけ言った。
「いつもそうね。私のこととなると、心配ばかりして」と若菜。
「うん。今日は特別な場だから、どうしても気になって来た」と、体調が悪いせいか紀康の声は弱々しかった。
若菜の胸は温かく満たされていた。
宴はまもなく終わった。
多くの人がまだ話し足りない様子だった。芸術家は話が合うと何時間でも語り合えるものだ。新しい刺激も求めており、裕亮や梨紗のような若い世代から学びたいと思っている。
裕亮と梨紗も今日は大きな収穫があった。会場を出ると外は少し肌寒く、裕亮は自分の上着を脱いで梨紗の肩にかけた。
その様子を、ちょうど出てきた若菜たちが目撃した。
和生が小声で、「本当にリチャードを手玉に取ってるみたいだな」とつぶやいた。
若菜が紀康をちらりと見ると、彼は特に反応しなかった。
紀康は若菜のそばに寄らず、「先に帰るよ。若菜を送ってあげて」とだけ言った。
若菜は彼が自分を避けているのに気づき、「大丈夫よ、紀康さん。うつるのなんて怖くないから」と声をかけた。
「病気は辛いから、僕だけで十分だ」と手を振り、そのまま来た車に乗り込んだ。
和生は笑いながら、「紀康さんって、本当に…昔から女に興味なさそうだったのに、まさか一番に彼女ができて、しかもこんなに大事にするなんて」と言った。
青石が「和生」と軽く注意する。
和生がそちらを見ると、梨紗と裕亮はまだ帰っていなかった。二人は車を呼んで待っているようだった。
「別にいいじゃないか。自分のものじゃないものを欲しがる人っているんだよ。そう見られたくないなら、そういうことしなきゃいいのに」と和生はぼそりとつぶやいた。